過去の記事

C「アベノミクスと信用供与」

アベノミクスがもたらす影響、特に若い皆さんへの影響については、以前もご紹介をしました。
今回は、アベノミクスの持つ危うさという側面から皆さんへの影響を考えてみたいと思います。それは、この危うさが中小企業や小規模事業者にも大きな影響を及ぼすからです。

今、世界中の輪転機はフル稼働です。
国債を刷るために、紙幣を刷るために、要するに「お金」というものが世界中の輪転機から日々大量に吐き出されています。
「お金」が増えればいいんじゃないの、と思われるかもしれませんが、そう簡単な話ではありません。
2008年秋のリーマンショック以前には、世界で流通する米ドルは約2兆ドルでしたが、今はその3倍の約6兆ドルというべらぼうな量になっています。これに加えて、日本の円、中国の元、ヨーロッパのユーロも同じように増え続けています。しかし、世界の経済は2008年の3倍の規模には達していません。この経済の実態と「お金」の流通量のギャップが、アベノミクスの持つ危うさとも言えるでしょう。

皆さんは体験したことが無いと思いますが、筆者はいわゆるバブル経済を実体験しています。
あれは今考えても異常な時代でした。会津という辺境の地の、さらに辺境にある山林や原野に札びらが切られる。知り合いの京都今出川通りにあるチャンポン料理屋の小さな店に何億円という担保価値が設定され、それに踊らされた後継者が酒と博打で身を滅ぼす。古ぼけたビルが一ヶ月に五六回も転売され、転売のたびに値段が吊り上る。馴染みのスナックの経営者が、見たことも無いよそ者の、胡散臭い、やくざっぽい、成金趣味のお客さんが怖いと、筆者に閉店まで店にいてくれ、一人にしないでくれと言う。本当におかしな数年間でした。

その原因は「過剰流動性」です。要するに、社会で実際に必要とされるお金の量をはるかに上回るお金を国が輪転機で刷ってしまい、それが金融市場に溢れ出して、儲かりそうなものなら何でもかまわずに買い漁り、値を吊り上げる現象のことです。別名を「バブル経済」と言います。1987年のリゾート法を契機とする、筆者の体験したあのバブル経済がまさにこの過剰流動性の落とし子でした。この間、東証平均株価がなんと38,915円を記録したのです。そして、宴(うたげ)の後は、皆さんもご承知の「出口の無い」平成不況でした。暗い1990年代が幕を開け、その爪あとは今でも消えずに残っています。

さて、今回のアベノミクスは「過剰流動性」の罠に陥っていないのでしょうか。
既に筆者は第21話「アベノミクスと若い人」で若干その危険性に触れていますが、今回は視点を変えて、日本、アメリカ、ヨーロッパで足並みを揃えて輪転機を廻している状況が、それ以外の国々にどういった影響を及ぼしているか、というお話を差し上げたいと思います。

自分では輪転機を廻していない新興国の国々は、正直困りはじめています。
それはどういうことかと申しますと、日本、アメリカ、ヨーロッパが輪転機を廻して刷ったお金が、ぐるっと廻って新興国に流れ込んでいるのです。お金というものは利率の高い、儲かる割合の高いところへ流れ込むもの、ちょうど水が高いところから低いところへ流れるように、です。以前のバブル経済では、それが土地であった訳です。
今、そうしたお金が新興国に流れ込みはじめています。そうしますと、そういった国々の通貨は買われますから高くなります。通貨が高くなると、日本の円高と同じように輸出にブレーキがかかります。新興国の多くは輸出で食べていますから、これは困ったということで、通貨を安くするために金利を下げようとします。そうですね、低い金利では利率が上がりませんから魅力が減ります。しかし、金利を下げると、今度は国内の物価が上がります。国民生活を脅かすインフレとちょっとした国内バブルが起きることになります。こうしたジレンマに新興国の多くは直面しようとしています。
また、こうしたお金が何かの原因で急に新興国から引き上げられれば、今度は新興国の通貨が暴落し、輸入するにも、借金(国債)を返済するにも資金不足という状況に新興国が追い込まれる危険性も無視できません。

今はまだ、新興国という比較的小さな市場で起こりつつあるインフレやバブルですが、筆者はこれが世界中に広がらないのだろうか、と嫌な予感をしています。しかも、今度は日本だけではなく、アメリカもヨーロッパも輪転機を廻していますから、あのバブルよりも強烈なそれが、と考えると怖い話ではないでしょうか。
もちろん、筆者はアベノミクスを否定するものではありません。その“新自由主義”的な道筋は評価に値すると思っています。しかし、すべてによいことはありません。光があれば影があります。問題は、光と影のあることを認識し、どうした影響がご自分に現われるのかに注意を払わなければ危うい、ということです。その意味では、日本経済新聞を読む、という日々の挑戦をお薦めします。それは、皆さんの能力の向上にも間違いなくつながるからでもあります。

C「規制緩和がもたらすもの」

以前、規制緩和はビジネスチャンスを生み、ビジネスチャンスは皆さんの雇用をもたらす、というお話を差し上げました。今回は、規制緩和が何をもたらしたのかを実際の横浜市の事例からご紹介したいと思います。

5月21日付けの日本経済新聞の記事によると、横浜市の待機児童がゼロになったそうです。2010年4月の時点で横浜市は全国ワーストの1,552人という待機児童を抱えていました。待機児童というのは、親御さんが(主にお母さん)働きたいと思って保育所に子どもを預けようとしても、入れる保育所が無い、そういう子どもさんのことで、日本における女性の就業や社会進出を阻害している大きな要因の一つに上げられています。
通常の商売ではこれだけ困っている人がいれば、そこには大きなビジネスチャンスがあるはずで、すぐに保育サービスが供給され、待機児童は無くなっておかしくありません。しかし、そうはならないのが日本の面白いところです。需要があるのに供給されないという不思議な現象が“待機児童”です。それを横浜市は見事に解消したのです。

待機児童が生まれる背景には、保育所には認可と無認可の二つがあり、認可保育所には行政の支援があり、割安な料金で子どもを預けることができますが、無認可保育所には行政の支援がありませんので、費用は基本的に保護者(親御さん)が負担するので、料金は割高になる、という事情があります(自治体によっては無認可保育所に支援を行っているところもあります)。そこで、親御さんは認可保育所に入れたいとなるのですが、これが難しいのです。
というのは、認可保育所は長い間、地方自治体と社会福祉法人だけが設置・運営できるという規制があったからです。要するに、市町村や社会福祉を目的とする法人がやる分には信用できる、それ以外のもの、例えば企業がやると儲け本位になって、社会福祉から逸脱するのではないか、という厚生労働省的な性悪説で成り立ってきたのです。
そうしますと、社会福祉法人からすれば、新規参入の少ない方が競争も楽ですし、お互い社会福祉法人同士でインナーなコミュニティですので、たいがいのことは内内で処理できますから、そういう規制はありがたいし、そういう規制を緩和して、部外者が市場に入ってくるのは勘弁して欲しい、という話になるのは当然でしょう。
これでは、いくら待機児童が増えても、肝心の認可保育所が増えるはずはありません。そうでしょう、困っている人が多い方が経営は楽に決まっていますし、いくら困っている人が多くても認可保育所以外には割高な無認可保育所しか選択肢は無いからです。

さすがにこうした事態は好ましくないという世論に押されて、2000年に厚生労働省は市場を部外者にも開放したのです。しかし、現実はそう簡単には変わりませんでした。それは、開放したとはいえ、認可保育所の認可権限を握っている地方自治体が認可に際しての審査を厳しくする、あるいは認可保育所の設置に対する支援で社会福祉法人とそれ以外に差をつける、といった裁量行為(法律に特に定めは無いが、法律の趣旨に沿って独自の定めを作る役所の行為)は自由だったからです。

こうした中で横浜市は、待機児童の解消を重要な政策として位置づけ(これが地方自治体の経営戦略と言えます)、積極的に社会福祉法人以外の新規参入を促してきたのです。その結果が待機児童ゼロにつながった、ということです。
そのためには、これまで認可保育所新設における助成金を社会福祉法人に優先配分していたのを改め、企業にも同等に配分し、あるいは保育サービスに興味を持つ企業を訪問して、新規参入を促すなど、待機児童の解消という政策に焦点を絞り込み、見事に成果へつなげたと言えるでしょう。

もちろん、新規参入した認可保育所の質をどう保証するのか、あるいはビジネスとして成り立たなくなった際に企業はすぐ撤退するのではないか、といった今後の課題はありますが、いずれにせよ規制緩和という武器が有効であることを横浜市は証明したと言ってよいと思います。

今回は“待機児童”という問題に絞って、規制を考えてみましたが、実は私たちの周りにはこういった規制がたくさん存在し、その規制は法律で定められている場合もあり、裁量行為の場合もありますが、いずれにせよそれがある種の障壁となっている、という事実があります。その話は、またの機会にいたしましょう。いずれにしても、こうした規制が緩和されれば、新しい市場が中小企業や小規模事業者にも開かれることになるのです。

C「社会保障とは」

社会保障のお話の前に、ちょっと正社員と非正規社員のことをお話しいたします。
それは、日本の労働法は占領時代にアメリカのリベラルな思想を持った人たちが、労働者を保護するという前提で組み立てたものですし、日本が右肩上がりの成長を続けていた時代にはそれなりに効果を上げてきましたが、バルブ経済以降、不安定な経済成長の時代に入って、いろんな軋み(きしみ)が出てきたということです。
あれだけ保護されていては、正社員を採用するのは怖いものです。要らなくなったから首とはいかないのですから、どうしても企業は非正規社員を雇うようになります。あるいは、アウトソーシングと言って、業務そのものを社外に出すようになります。身軽で、いつ経営がおかしくなっても困らないような経営上の工夫をするのです。
しかし、正社員と非正規社員の処遇に大きな差が生じるようになって、社会が不安定化しだしたのが今の日本と言えます。この矛盾をどう解決するのかが今問われているのです。
ちなみに正社員と非正規社員の生涯賃金は約二倍の格差がありますし、これからお話しする社会保障でも非正規社員は正社員と比べて、はるかに不利な立場にあるのです。

では、社会保障ですが、四つの制度を覚えていただくとよろしいでしょう。
第一の制度は労災保険で、労働者災害補償保険法という法律に基づくもので、簡単に言いますと、仕事をして事故にあったり、通勤や出張で事故にあったりした場合、一定の保証が労働者本人、あるいは遺族に支給されます。その財源は労災保険料として会社が全額負担しています。
一人でも労働者を雇っている場合は、会社は必ず労災保険に加入することになっています。ちなみに、過労死が労災に該当するのは、月に80時間以上の時間外労働をするのが認定基準のようです。くれぐれも、皆さんは過労死などしないでくださいね。

第二の制度は雇用保険で、皆さんは失業保険と覚えているかもしれませんが、雇用保険法という法律に基づくもので、いわゆる失業給付金のほかに就業促進手当とか、教育訓練給付金とか、育児休業給付金とか、いろいろな制度があって、筆者も混乱するほどです。
ただし、この制度に加入できるのは、1週間に20時間以上働くことと、1ヶ月以上働くことが条件ですので、労働時間や労働期間の短い人は制度に入れないという問題を抱えています。いわゆるショートの派遣の場合は、その日その日の仕事になりますので、基本的にこの制度では救われません。また、雇用保険に故意に加入しないで会社負担の保険料を免れようとする会社もありますので、皆さんも正社員以外で勤める際は雇用保険に加入できるかどうかを確認するとよろしいでしょう。ちなみに保険料は労働者本人が賃金の1,000分の5、会社が1,000分の8.5を負担します。

第三の制度は年金で、これにはいくつかの選択肢があります。通常、皆さんが勤める場合は厚生年金に入ることになりますが、正確に言えば日本の20歳以上60歳未満の人は全員国民年金に加入することになり、皆さんが会社に勤めれば厚生年金として会社側も年金保険料を納め、公務員になれば公務員共済として役所側も年金保険料を納めますので、自分自身で年金保険料を納める国民年金の人と比較して、会社側、あるいは役所側の負担分だけ将来支給される年金の額が増えるという仕組みになっています。これを「二階建て」と言って、農業や自営業などの国民年金加入者(1号被保険者)よりも、会社勤めや公務員などの厚生年金あるいは共済加入者(2号被保険者)の方が掛け金も多く、年金も多いのです。さらに、この2号被保険者の配偶者は年金保険料を納めなくても年金が支給される3号被保険者になれるというメリットもあります。筆者は、この3号被保険者の存在が日本の年金制度をさらに難しくしていると考えています。
なお、年金は25年以上加入していませんと(年金保険料を納めていませんと)、年金を支給されませんので、本当は20歳になったら学生でも加入するのがよろしいと思います。
また、厚生年金に加入できるのは、正社員と正社員の場合の4分の3以上働く非正規社員のみですので、月に120時間以上、日に6時間以上働きませんと、非正規社員は国民年金ということになります。さらに、厚生年金に故意に加入しないで会社負担の年金保険料を免れようとする会社もありますので、皆さんも正社員以外で勤める際は厚生年金に加入できるかどうかを確認するとよろしいでしょう。

第四の制度が健康保険で、皆さんはほとんど正社員の道を選ぶでしょうから、会社が加入している健康保険組合(3,000人以上の加入者がいないと組合は作れません)、あるいは公務員ならば共済組合ですので、あまり問題はありません。制度として、本人負担の保険料と会社側負担の保険料で成り立っていると思えばよろしいでしょう。
問題はそうでない人で、この場合は協会けんぽ(健康保険組合に加入していない会社の場合)か国民健康保険ということになります。この違いは、厚生年金と国民年金の場合と同様で、協会けんぽは会社側も保険料を納めますが、国民健康保険は本人負担のみなので、一般的には国民健康保険の方が保険料は割高になります。また、協会けんぽへ加入できるのは正社員と正社員の場合の4分の3以上働く非正規社員のみですので、月に120時間以上、日に6時間以上働きませんと、非正規社員は国民健康保険ということになります。さらに、健康保険に故意に加入しないで会社負担の保険料を免れようとする会社もありますので、皆さんも正社員以外で勤める際は健康保険に加入できるかどうかを確認するとよろしいでしょう。厚生年金と協会けんぽをあわせると、賃金の20%以上の会社側負担が生じますので、中小企業ではそれを免れようとする会社が後を絶ちません。

以上の四つの制度、これは社会に出る際には必ず理解しておいてください。自分自身の身を助けるのは、この四つの制度になりますので。

C「雇用とは」

このところ、「重い」話が続きましたので、今回と次回は働く際に知っておくべき基礎知識として、「雇用」と「社会保障」をご紹介したいと思います。まずは、「雇用」の話です。

日本において雇用は、無期雇用と有期雇用の二種類しかありません。
また、雇用以外で働くには請負という形態しかありません。委任という特殊な形態がありますが、これは弁護士とか医者の話なので割愛します。
雇用とは誰かの指示・命令に従って働くことを意味し、請負とは自らの判断で仕事することを意味します。従って、雇用は仕事の結果を出さなくても働いた時間に応じて対価(賃金)を得ることができますが、請負は仕事の結果を出さなければ何時間働いても対価(料金とか委託料とか)を得ることはできません。
その意味では、請負の方が腕を試されるとも言えるでしょう。

とあれ、皆さんの社会参加の最初はほとんど「雇用」でしょうから、雇用の基本的な仕組みをお話したいと思います。
まず、理解すべきことは、その雇用が無期か有期か、ということです。
無期雇用を正社員、終身雇用と言います。期間の定めの無い雇用ですから、その企業が定める定年までは勤めることができます。正社員は、通常、雇用契約書は締結しません。
有期雇用を非正規社員、期間の定めのある雇用と言います。形態はさまざまでパート、アルバイト、臨時、契約、派遣、嘱託、それ以外にもあるかもしれませんが、要するに正社員以外のすべての労働者はここに入ります。今の日本では、全体の約35%が非正規社員となっています。非正規社員は、雇用条件を明記した雇用契約書を必ず締結することになります。
この非正規社員は、最大3年間の雇用契約となりますが(契約更新は妨げません)、5年以上雇用を続けると正社員にしなければならない、そこで企業はその前に非正規社員を雇い止めする、ということは以前お話したとおりです。

このように非正規社員は雇用契約の期間が終われば、その時点で解雇できます(と言いますか、契約を更新しなければ自動的に退社です)。しかし、正社員はそうではありません。正社員と非正規社員の身分保障には天と地ほどの違いがあるのが、今の日本の労働法と言えるでしょう。

では、正社員はどんな場合にだけ解雇できるのでしょうか。逆に言えば、皆さんはそういうケース以外では正社員になれば定年まで身分が保証されることになりますので、よくご記憶いただくとよろしいでしょう。

第一は懲戒解雇で、この場合は、解雇予告も無く、退職金も支払われない場合があります。それは、正社員は会社が禁止していること(懲戒事由)を犯した場合です。この懲戒事由は就業規則などに明示されなければならないので、皆さんも勤めたらまずは就業規則を読んでみましょう。代表的なものとしては、刑事犯罪、経歴詐称、二重就業、機密漏洩、非行、職場での宗教活動あたりでしょうか。まあ、これに該当することはまずありえないと思います。

第二は普通解雇で、これは懲戒事由に該当するほど悪質ではありませんが、やはり就業規則に定められた解雇理由に該当する場合です。この場合は、解雇予告(一ヶ月前に解雇を予告するか、あるいは一ヶ月分の賃金に相当する解雇手当を支給する必要があります)もありますし、退職金も通常は支払われます。代表的なものとしては、無断欠勤、勤務不良、心身故障、業務命令違反などですが、いずれも会社側がその客観的な根拠を立証する、あるいはそこまでに至らないように社内で指導・教育する、といった必要がありますので、むやみやたらに成績が悪いから首、ということにはなりません。

第三は整理解雇で、皆さんが目にする解雇のほとんどはこれ、要するに会社の経営が大変なので人員を整理するというケースです。しかし、この場合もそう簡単ではなくて、四つの対策を講じないと不当解雇として会社は裁判に負けてしまいます。
一つ目の対策は会社の経営が厳しいことを客観的に証明すること(人員削減の必要性)、二つ目の対策は解雇を回避するための対策を解雇の前に講じること(解雇回避努力、例えば役員報酬を減らす、残業を減らす、非正規社員を契約更新しない、新規採用を行わないなどの努力)、三つ目の対策は解雇の人選基準を客観的に示すこと(人選の合理性)、四つ目の対策は人員整理の前に労働者へ十分な説明と協議を行い、納得を得るように努めること(事前説明義務)です。
これだけの手間をかけないと、正社員は解雇できないのです。例えば、社長の役員報酬を下げないで、正社員を首にすることはできないのです。皆さんも新聞をよく読んでみると、「不当解雇で復職へ」なんていう記事を目にするでしょう。一番新しいものでは大相撲の蒼国来事件がそうでした。

ざっとご覧になって、正社員を解雇するのは大変なんだ、とご理解いただければ幸いです。では、次回は働く上で知っておくべき社会保障のお話を差し上げましょう。

C「究極の選択」

皆さんが社会に出る際にどの会社を選ぶのか、あるいはどの会社に選ばれるのかは大きな分かれ道になります。いわば人生の選択でもあります。そこで、「選択」というものが持つ本質的な怖さについて今回はお話をさせていただきたいと思います。

“ソフィーの選択”という映画がありました。
メリル・ストリープが1982年にアカデミー主演女優賞を取った映画です。
暗い映画です。
第二次世界大戦の最中、ユダヤ人として二人の子どものうち、一人を死に追いやらなければならない母親の選択が背景にあります。
息子を取るか、娘を取るか、こういう選択を「究極の選択」と言います。
タイタニック号の遭難でも救命ボートに誰を乗せるかで、やはり「究極の選択」がありました。

こういった「究極の選択」に直面することは、極めて稀なことですので(ですから映画になるのですが)、私たち日本人もまもなくある種の「究極の選択」を迫られそうです。
原子力発電所を再稼動するか、それとも止めたままにしておくのか、です。

日本における産業の空洞化の原因はさまざまに議論されてきましたが、円高、強い労働者保護などと並んで、割高な電力料金も槍玉に上げられていました。
その割高な電力料金がさらに上昇しています。原子力発電所がすべて止まり、火力発電所を動かすために天然ガスを買いあさったのが原因だと、政府や電力会社は主張しています。
原子力発電所において将来発生する廃炉や使用済み燃料の最終処理など、不確定の費用を考えれば、原子力発電は決して安くない、という主張があることは承知していますし、その根拠の正しさも理解しています。
とはいえ、その種の将来コストを外せば、天然ガスを買いあさることが当面の電力料金の値上がりにつながるのは明らかです。また、こうした化石燃料の割高な輸入が日本の貿易収支を赤字化させている原因の一つにもなっています。貿易収支や経常収支が赤字だと何が困るのかについては、後日、お話を差し上げたいと考えています。

そこで、政府は新しい安全基準に合致した東京電力・柏崎刈羽原発、北海道電力・泊原発、関西電力・高浜原発、四国電力・伊方原発、九州電力・川内原発と玄海原発、合計6ヶ所の再稼動を視野に入れているようです。これで、現在稼動中の関西電力・大飯原発とあわせれば、かなりの電力を原子力発電から得ることが可能となり、第一に供給不足による停電や節電を回避し、第二に天然ガスをはじめとする割高な化石燃料の輸入を減らせると考えているのでしょう。

さて、皆さんはどう思われますか?
原子力発電所の再稼動を認めるのかどうか、です。
政府や電力会社はこう言って皆さんに迫るでしょう、電力料金が値上がりしてもいいんですか、夏や冬の需要期に節電や停電があってもいいんですか、それでかまわないのですか、とね。

以前、「よいとこどり」はできないとお話しました。
高い政府のサービスと、低い税金は両立しません、どちらかを選ぶしかない、とね。
今回も似たような選択になるでしょう。
それは、日本国民が長い間、電気は使い放題という生活を続けてきたことへの警鐘でもあるのでしょう。
さて、あなたはどう選択しますか?
原子力発電所の再稼動を受け入れて、電力の安定供給や電力料金の維持を求めますか?
それとも、原子力発電所を止めて、原発事故の危険性を減らし、その代わり、割高な電力料金や節電、停電を我慢しますか?

同じ意味で、皆さんも選択をまもなく迫られることになります。上場企業に代表される大企業、霞ヶ関に代表される公務員、それとも地域で頑張っている中小企業や小規模事業者、あるいはベンチャーの世界に飛び込むのか、自ら起業するのか、いずれにせよ、その選択をされる場合は、安直に走ることなく、ご自分の人生を左右する「究極の選択」なのだ、というくらいの想いで臨んでいただければと願っています。

C「増配が示す日本経済の今後」

株式市場と皆さんの関係は、今のところそんなに直接はないでしょう。
しかし、株式市場は日本経済のバロメーターですから、それを観察すると日本経済の状況が掴めますし、この先、皆さんが企業へ勤めれば自分の会社の株価とか配当とかに注意するのは当然のことになります。B/S(貸借対照表)やP/L(損益計算書)を特に分析しなくても、株価が上がっていたり、配当が増えたりすれば、それはその企業の利益が増加している指標と考えてください。ちょうど、体温計で風邪かどうかがわかるのと同じです。以前のオリンパスのように粉飾決算で利益を架空計上して配当を出し、株価を操作するようなことは論外です。

そういう意味では「2014年3月決算における上場企業の配当額が過去最高になる」と日本経済新聞の記事がありました。
上場企業とは株式を市場に公開している企業ですので、日本経済の根幹を支える企業群だと考えてよいでしょう。すべてが大企業とは言えませんが、中小企業が上場するのはなかなか大変ですので、まあまあの規模や水準以上の企業群だとお考えください。また、企業は決算時期を選べますので、すべてが年度末の3月末で会計を〆るとは限りませんが、多くの企業は3月決算ですので、上場企業の3月決算というのは、日本経済の現状を物語る重要な指標です。

その配当が総額で6兆3,700億円に達し、これまでの最高だった2008年3月決算の6兆1,600億円を上回る見込みとなりました。
配当は企業が生み出した利益の中から株主へ廻すお金ですから、利益が上がらないと配当は出せません。そして、増配する企業が続出しているのです。ちなみに配当を決算前の想定より増やすのを増配、減らすのを減配と言います。
上場企業の株式の約2割は家計部門(国民のお財布)が所有していますから、おおよそ2兆円のお金が国民の懐に流れ込んでくることになります。これはかなり大きな額ですので、それが消費に廻れば国内の経済はそれだけ活発になると期待されます。例えば、定年後のご夫婦がKDDIの株を持っていれば、KDDIの今回の配当は1株あたり120円ですから、1万株をお持ちであれば120万円の臨時収入になり、それで夫婦旅行を楽しむとか、新車に買い換えるとか、そういった消費行動が起こることになります。
家庭が株式を持つ理由は大きく三つあり、一つ目が株の値上がり、二つ目が株の配当、三つ目が株主特典(ホテルの株を持っていると無料の招待ディナーがあるとか、航空会社の株を持っていると運賃の割引があるとか、です)と言われていますが、既に株はここ一年で8,000円台から15,000円台へと2倍近くに値上がりしていますから、今回の増配とあわせば株を持っている方々の懐具合はかなりよくなっていると言えるでしょう。

さて、問題はこうした企業の利益拡大が設備投資や雇用の増加に結び付くかどうかです。
企業経営者は近未来の経済状況を判断することが重要な役割で(存在価値の半ば以上がそれだ、とも言えます)、近未来に市場が拡大すると見込めば、そのための設備投資や雇用の増加へと利益の配分をシフトします。しかし、今の好況が一過性のものであると思えば、利益は設備投資や雇用の増加には向かず、配当や内部留保(利益を企業内に積み上げる)へシフトすることになります。

その潮目を占うのが、この夏の参議院選挙になると、筆者は予想しています。
そこで衆参両議院ともに政権基盤が安定すれば、いよいよアベノミクスの本番である規制緩和がはじまりますので、一般的に考えれば企業にはビジネスチャンスが増えることになります。それは、多くの規制は既得権を守る方向に働いていますので、それ以外の企業にとっては一種の参入障壁となっており、それが緩和されれば、例えば農業部門に企業が進出するとか、そうしたビジネスチャンスが生まれるからです。
しかし、その逆に参議院での政権基盤が安定できなければ、衆議院と参議院のねじれ現象は続きますので、法案成立が必要な規制緩和は困難に直面することになります。
この分かれ道が夏の参議院選挙ではないか、そのように思うのです。

しかし、だからと言って皆さんに特定の政党を薦めているのではありませんので、これはお間違いなさらないようにお願いいたします。あくまでもアベノミクスの第三段階を円滑に進めるには、あるいはそれに伴うビジネスチャンスを掴むには、という意味ですので、政治的な活動はご自身の価値観に添って行動されるようお願いいたします。
いずれにせよ、規制緩和は多くのビジネスチャンスを生み、ビジネスチャンスは皆さんの雇用の機会を増やすという連関をご認識いただければと思います。この具体的な事例をいずれの機会にご紹介したいと思います。

B-B「中国を知る③~中国の技術力~」

「中国を知る」シリーズも三回目ですが、今回は皆さんが耳にする“中国の脅威”というものが実際はどんなものなのか、というテーマで、マスコミがよく取り上げる中国海軍を題材に、その技術力や戦略性を考えてみたいと思います。それは、皆さんが中小企業や小規模事業者で働き、アジアを相手にする際に、中国を中心とする海洋や地下の資源を巡る覇権争いの実情を知る手がかりにもなると考えるからです。いわゆるアジアのカントリーリスク(国外を相手にビジネスをする際に織り込むべきリスク)を知る上での手がかりとお考えください。

この頃、中国の海軍についての報道をたくさん目にします。
日本の領海近くを艦艇が通過したとか、国籍不明の潜水艦を探知したとか、航空母艦が稼動したとか、実に毎日のように見聞きします。そして、まるで中国の海軍が日本の脅威であるかのような論調が多いようです。

ある意味では「脅威」ですが、現実的には過剰反応と言えるでしょう。
それは、海軍力というものの本質を理解しないために起こっているとも言えます。

海軍力、シーパワーとも言いますが、それを培うのは実に難しいことなのです。
まだしも、陸軍力や空軍力の方が道のりは容易だ、とも言えます。
それは、海軍力と言うものが、単に兵器の優劣や数の多さ少なさだけで割り切れるものではなく、海という特殊な環境において、期待される戦力を発揮するには、海との親和性と言いますか、海との付き合いの長さとか、実戦を経て養われる軍隊としての文化とか、そういったものが大きな影響力を持つからです。
歴史的にシーパワーを考えますと、中世以降でもスペインからオランダへ、オランダからイギリスへ、そしてアメリカへと、世界の海を支配した国はわずか数ヶ国に過ぎず、それ以外は海の覇者へ挑戦して負けた過去の繰り返しです。
そこには、まずもって地政学的に国の成り立ちが大陸国家であるか、海洋国家であるかが問われます。
イギリスの覇権へ挑戦したフランスやドイツ、アメリカの覇権へ挑戦したソビエトロシアがいずれも海の覇者に勝てなかった理由は、まさに彼らが大陸国家であり、海洋国家ではなかったからです。要するに、海の文化そのものが根ざしていなかった、とも言えるのです。日本は海洋国家ですので、その意味ではアドバンテージがあるのですが、残念ながらこの前の戦争ではイギリスとアメリカという二大海洋国家を同時に相手にし、その片方で中国という大陸国家と大陸でも戦うという両面作戦を取っていたので、これは勝てる道理がありません。

そういう意味で言えば、中国が歴史的に海と付き合ったのは、明の永楽帝の時代、鄭和という宦官によるインド洋大遠征があったのが唯一で、それ以外はまったくと言ってよいほど、海は身近に無かったのです。従って、中国の本質は大陸国家以外の何ものでもありません。これでシーパワーを培えるとすれば、それは歴史を塗り替える画期的なことだ、と言えるでしょう。

また、現在の中国海軍の技術はほとんどがソビエトロシアの焼き直しであり、いまだ自前の技術を手にしてはいない、という事実もあります。これは致命的な話で、既存の技術を改良することはできたとしても、それを乗り越える技術を生み出すには至っていないことを意味しています。
例えば、昨今話題の航空母艦「遼寧(りょうねい)」にしても、あれはソビエトロシアの最末期、航空巡洋艦(飛行機も乗せるがミサイルなどの打撃兵器も積んでいる、甲板が狭いのでジャンプ式で航空機を発艦させる)アドミラル・クズネツォフ級の二番艦「ヴァリャーグ」として着工したものの、完成に至らず20年近くも放置されたあげくに中国へ売却された代物で、アメリカ海軍の原子力航空母艦の戦力が100だとすれば、その10にも値しない「通常動力」の“準”航空母艦に他なりません。また、単独艦であることから、実際の戦力として運用することは難しく(補修や整備のために定期的にドック入りする間は戦力ゼロになるため)、いわば練習用の航空母艦と考えるのが妥当です。また、搭載する飛行機もソビエトロシアのSu-27系統であるJ-15を20機程度ということなので、これも実質的な戦力としてはほとんど意味がありません。
今後、本格的に航空母艦を内製化して建造するにしても、その戦力化には10年近くかかるでしょうし、その整備運用コストをインフラ整備や社会保障制度の確立に追われる中国政府が容易に捻出できるとも思えません。

最後に中国にとっては、外洋(太平洋)に乗り出すには、日本列島から南西諸島(沖縄や奄美の島々)を経て台湾へ至る「島々の孤」、この地政学的な障壁があります。ちょうど、ソビエトロシアが北海道と千島列島で太平洋への出口を抑えられていたように、です。この障壁を全て仮想敵国が握っていることは、中国海軍がアメリカ海軍の海である太平洋へ進出しようとする頭を抑えられているようなもので、どうにも困った存在なのです。この「島々の弧」が存在するかぎり、中国海軍の太平洋進出、即ちアメリカ海軍との対抗はかなわぬ夢と終わるでしょう。

こうした状況を考えますと、中国海軍の脅威は将来への警鐘にこそなれ、現実的なものとは言えないことがおわかりいただけると思います。とかく日中間の軋轢を奉じると視聴率や発行部数が伸びる、という昨今の傾向は私たちの目を曇らせかねないと危惧する筆者です。これと同じように、中国の経済力や技術力についてもいたずらに「脅威」として受け止めるのではなく、冷静にその実力を測ることが重要ではないでしょうか。

D「アジアとの付き合い方③~サイパン異聞~」

アジアでビジネスをする際に注意すべきことの一つとして、過去の不幸な戦争のことをご紹介してきましたが、今回は「戦争の当事者はどう受け止めているのか」ということを一つの事例を通してお伝えいたします。それは、「相手の心境や感情を尊重し、だからといって相手に迎合するのではなく、事実を事実として伝え、かつ受け入れる」という精神構造がどういったものなのかを示してくれると思うからです。

サイパンという島があります。
現在はアメリカ合衆国の自治領、北マリアナ諸島の中心地です。
スペイン~ドイツの植民地となり、第一次大戦の後、日本の統治下に置かれます。
若い人にはわからないかもしれませんが、日本に「南洋庁」という政府機関があり、そこが治めていた島です。
サトウキビを中心とする開発が進められ、会津出身の松江春次という方が「砂糖王」と呼ばれたほど、製糖で成功を収めた島です。

今では日本から直行便で3時間ほどの近さにある、マリンリゾートやゴルフの観光地として栄えています。
しかし、あの太平洋の戦争では絶対国防圏(本土防衛及び戦争継続のために必要不可欠である領土や地点)の中心地として、約3万人の軍隊が防衛にあたりました。
しかし、マリアナ沖海戦で日本の最後の空母部隊(飛行機を載せた航空母艦で主に構成された精鋭部隊)が壊滅し、約7万人のアメリカ軍が上陸して悲惨な玉砕戦が戦われたのです。この戦いは皆さんも「太平洋の奇跡−フォックスと呼ばれた男−」という映画でご存知かもしれません。
その結果、約3万人の軍隊は900人余りの捕虜以外はすべて戦死(これを玉砕と言います)、約2万人の民間人の半数も自ら死を選びました。捕虜になるとアメリカ軍から悲惨な目にあわされると軍から教えられた民間の人たちは、バンザイクリフに代表される自殺を選んだのです。
そして、アメリカ軍に占領されたサイパン、あるいは隣のテニアンからB29の大編隊が日本本土を空襲することになりました。

さて、お話したいことはこの悲惨な戦いの後です。
今から10年ほど前、今の天皇がサイパンを慰霊のために訪問されました。
軍民あわせて4万人を超える犠牲者に祈りを捧げ、その魂を鎮めるためです。
当然のようにサイパンの激戦地や慰霊碑を訪れたのですが、その中で宮内庁が公式予定に入れていなかった二つの行動を天皇自らが望んだのです。
それは、サイパンの戦いに巻き込まれて死へ追い込まれた沖縄出身者の民間の人たち(サトウキビ栽培に従事していた)の慰霊碑「おきなわの塔」へ祈りを捧げ、朝鮮半島出身者の人たち(サトウキビ栽培に従事し、あるいは軍属として軍の雑務にあたっていた)の慰霊碑「韓国人犠牲者追悼平和塔」へも祈りを捧げられたのです。

宮内庁の公式日程に無い行動を天皇が取ることはほとんどありませんが、サイパンという太平洋の激戦地で、自らの父親である昭和天皇が深く関わったあの戦争での犠牲について、沖縄と朝鮮半島という日本において特別な関係にある人たちに特別な想いを抱いていることを、彼は自らの行動として表したのではないか、筆者はそう受け止めています。
こうした天皇の行動を見るにつけ、その精神の深さにある種の共感を覚えるとともに、はるかに浅い精神の層で沖縄や朝鮮半島を語る多くの評論家や政治家にある種の失望を覚えてならないのです。

いかがでしょうか、こういった天皇の行動に、私たちがアジアと向き合い、アジアでビジネスをするうえでの貴重な示唆があるとは思いませんか。特に皆さんが中小企業や小規模事業者で働くとすれば、大企業ほどの経済的な競争優位性は無いでしょうから、大企業よりも深いところでアジアを知らなければなかなか勝ち目は生まれてきません。その意味で、皆さんがアジアにおいてある種の競争優位性を得るための道筋が見えてくると思うのですが、いかがでしょうか。

D「アジアとの付き合い方②~実るほど頭を下げる~」

前回、「戦争の記憶は三世代続く」というお話を差し上げましたら、読者の中から、「これからアジアを舞台に働く私たちに数多くの問題が降りかかってくることは明らかですね。 ただでさえ、言語、宗教、文化など抜本的な違いがあるのに、恐ろしいです。」というコメントをいただきました。ちょっとマイナスイメージを先行させたと反省しています。そこで、筆者はこうしてお付き合いしています、という事例をお伝えしたいと思います。

十年ほど前、ハルビンを数回訪問しました。
中国東北部、満州の地の最北にあたる黒龍江省、その省都であり、人口600万人を数え、ロシア情緒の漂うきれいな街です。
「何のために」と言えば、当時日本で不足していた組込み系の技術者を探す旅でした。
偶然、会津大学の知り合いの教授がハルビン出身でしたので、そのツテを辿って、現地のIT企業を訪問し、商談をした訳です。

そうした中で、歓迎のレセプションで日本側ゲストを代表してスピーチをする羽目になりました。ちょうど、小泉元首相が靖国神社を参拝して、日中間に微妙な空気の漂う時期、しかもIT企業の社長さんは人民解放軍出身の元軍人で、さあ、これは困りました、正直な話。
で、筆者はこういうスピーチをさせていただきました。
それは、「日本を代表する首相が靖国神社を公式に参拝したことで皆さんの心を乱したことは申し訳ないと思いますが、その一方で日本の象徴である天皇は靖国神社に参拝していないという事実も皆さんに知っていただきたいのです」という内容です。

これは日本人でもあまり知られていない事実ですが、昭和天皇は1975年を最後として靖国神社へは参拝(天皇の場合は親拝というそうですが)していません。それまでは、数年に一度参拝されていましたが、1978年にA級戦犯が合祀されてからは一度も参拝していません。これは、昭和天皇が亡くなられてからも同様です。
その原因は昭和天皇自身にお聞きすることはできませんので闇の中ですが、宮内庁長官であった富田朝彦氏が残したメモの中に、昭和天皇と思われる発言が書き留めてありました。
「私は 或る時に A級が合祀され その上 松岡、白取までもが
筑波(合祀以前の宮司筑波藤麿氏)は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平(最後の宮内大臣松平慶民氏)の子の今の宮司(合祀を行った宮司松平永芳氏)がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考えがあったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私は あれ以来参拝していない それが私の心だ」
要するに、昭和天皇はA級戦犯合祀を不快に感じていた、ということです。

ことの真偽は別として、天皇が靖国神社を参拝していないという事実を筆者はハルビンで語る羽目に陥ったのですが、これを聞いたホスト側の中国の人たちは一様に驚き、「そんなことがあったのか」と筆者に聞いてきました。歓迎の宴席は一挙に騒がしく、かつ和やかになり、まずまずお互いに打ち解けることができたのではないかと感じました。

前回、戦争で被害を受けた人々の記憶はなかなか消えるものではない、というお話を差し上げましたが、だからといって、私たち、特に若い人たちがアジアの人々を怖がる必要はありません。
注意すべきことは、そういった過去があったことをよく認識しておくことであり、同時にアジアの人々の傷口に塩を塗るような行為をしないことなのです。
「実るほど頭を下げる」というではありませんか。手前誇りを避け、そっくり返らずに謙虚に、相手の心境や感情を尊重し、だからといって相手に迎合するのではなく、事実を事実として伝え、かつ受け入れる、そうした精神構造であるかぎり、さほど怖がることは無いのです。
ちなみに筆者は中国の友人からよく言われますが、「あなたほど中国で安全な人はいない、どう見ても金持ちには見えないし、日本人らしくもない」とね。
また、中国の見知らぬ街で何故か必ず道を聞かれるのです。
こだわりを捨てれば、現地の風景に自然と溶け込むことができると、筆者は考えています。

なお、A級戦犯の話、東京裁判の話、何よりもこの前の戦争の話も機会があれば触れてみたいと考えています。

D「アジアとの付き合い方①~戦争の記憶~」

皆さんがこれから中小企業や小規模事業者で働くとしましょう。既に何度もお話を差し上げているように、これからの市場は「外」が重要です。たとえ国内で活動するにしても「外」を意識しないと生き残れません。残念ながらそれが「人口の減る」日本の現実です。ビジネスチャンスは「外」に開かれていると考えてください。
そうした「外」の中でやはり重要なのは中国であり、中国を含めた「アジア」です。しかし、この「アジア」と日本との間には過去の戦争という大きな問題があります。私たちは忘れていても、彼らの多くの記憶には残っている過去です。
この過去をどう認識するか、それによってビジネスのあり方、可能性も大きく変わると思います。そこで、第13話「中国を知る②」でも若干触れましたが、これから三回に分けて、過去の戦争がどういうものであって、彼らがそれをどう受け止めているのか、それを知る手がかりをご紹介したいと思います。今回はその第一回目です。

戦争の記憶は時間の経過とともに風化します。
それがどんなに悲惨なものであっても、徐々に記憶から薄れてゆきます。
しかし、それには多くの時間が必要とされます。
特に、戦争に勝った方よりも戦争に負けた方に、戦争で被害を与えた方よりも戦争で被害を受けた方に、より多くの時間が必要とされます。

筆者は会津人で、今でも会津に住んでいますが、会津人が140年前の戊辰戦争を忘れていないということはよく知られています。
山口県出身の彼女を親にあわせたら「長州人とは一緒にさせない」と反対された、という話さえ伝えられています。「薩長は許せない」という感情が140年たっても風化しきれていないようです。もっとも、筆者にはそういう感情はまるでありませんが、それはどうも少数派のようです。
また、あの靖国神社には戊辰戦争で亡くなった会津藩士が祀られていない、ということを問題視する人もたくさん存在します。
いずれにしても、会津人にとって、140年前の戊辰戦争は風化しきれていないのです。

「戦争の記憶は三代続く」と言われます。
戦争で被害を受けた、あるいは目にした世代を第一世代としますと、彼らは孫の世代にまでは「私はこんなひどいことをされたのよ」と直接話ができますので、孫の世代、第三世代までは生々しく戦争の記憶を伝えられる、従ってそれまでは記憶が風化することはない、ということのようです。
戦争で被害を与えた方では、「俺はこんな悪いことを戦争でしたんだ」などと孫に話すことは考えにくいですので、こうした現象は戦争で被害を与えられた方により強く発生するのでしょう。よく言うではありませんか、「加害者は事件を忘れられるが、被害者は事件を忘れられない」と。

フィリピン1,900億円、ミャンマー1,200億円、インドネシア800億円、ベトナム140億円、シンガポール30億円、マレーシア30億円、ミクロネシア(パラオやヤップ、ソロモンなどの島々)18億円、カンボジア15億円、ラオス10億円、この数字は日本が戦争賠償した金額です。中国と朝鮮半島がここに入っていないことについては、いずれかの時期にお話しいたします。
昭和20年8月15日に終わる戦争で日本がもたらした被害は、アジアの多くの国々に及びました。それは戦争賠償で終わった訳ではなく、今でも戦争被害を受けたアジアの人々からは賠償を求める訴訟が数多く続いています。
若い人からは、「そんな昔のことを言われても終わった話で関係ないでしょう」と言われるかもしれません。しかし、戦争の記憶は被害を与えた方では風化しても、被害を受けた方では三世代は風化しない、ということに想いを巡らせていただきたいのです。
とりわけ、戦争を引き起こした張本人でありながら、戦後目覚しい復興を成し遂げ、世界でも有数の経済大国にまでのし上った日本に対しては、周辺のアジアの国々はアンビバレンス(ambivalence、愛憎相半ばする状態)な感情を抱いている、ということにも想いを巡らせていただきたいのです。
そして、好むと好まざるとに関わらず、日本はアジアであり、アジアとともに歩んでゆくのだ、という未来にも想いを巡らせていただきたいのです。

いまだ戦後わずか70年を経過したに過ぎません。三世代かかる風化にはちょうど折り返し点、まだ70年は風化されないのだと、そう考えていただければ幸いです。

C「アベノミクスと若い人」

これから社会へ出ようという若い人へ、アベノミクスはどんな影響を及ぼすでしょうか。
これはどんな専門家でも研究者でもぴたりと当てることは難しいでしょうが、筆者は素人ですので、当たるも八卦当たらぬも八卦で怖がらずに見通してみましょう。

まず、当面は企業決算が黒字化します。これはひとえに円安のおかげ。円が75円の時代と100円近い今を比べてみますと、日本で200万円の車を以前は26,700ドルで売らないといけなかったのが、今は20,000ドルで売れます。アメリカの消費者からすると、同じ車が25%も値下げされたようなものです。これじゃあ、韓国の現代(ヒュンダイ)の代わりに日本のトヨタを買おうかという話になるでしょう。こういった円安効果を見込んで株式市場も値上がりの一途、8,000円台をうろうろしていた昨年と比べ、今は14,000円台ですから、ざっと70%以上の値上がりになり、それだけ企業の資産価値が改善されます。
こうした企業決算の黒字化は、必ず雇用の拡大をもたらします。その意味では、アベノミクスが若い人の雇用を拡大することは間違いありません。ただし、さまざまな法改正(第14話をご覧ください)がありますから、差引でどうか、というのが現実かもしれません。
また、伸びている企業の多くは採用を海外の人材へシフトしていますから、その意味では海外の若い人との競争も出てくるでしょうね。そうしますと、TOEICかTOEFLあたりの勉強もリベラル・アーツ+αの候補かもしれません。

次は心配ですが、日本の国債が暴落する(金利が上昇する)かもしれません。政府が発行し、日銀が買い取る、などという禁じ手を長く続ければ国債市場の透明性は信用されません。足元を見透かされて、既に1,000兆円にも達している国債の償還に不安が生じれば、確実に国債は暴落します。そうなるとどうなるか、今のギリシャやスペイン、あるいはキプロスやイタリアを見ると想像できると思います。
そうさせないためには、早い段階で禁じ手を止めないといけませんが、止めるには日本経済が再生されないといけない、日本経済を再生するには成長戦略が成功し、規制緩和が大きく前進しないといけない、こういう流れを作らないといけないのです。

最後に若い人が先々降りかかる災難があります。それは、年金と健康保険の後始末です。既に高齢の方と若い人を比べれば、生涯に受け取る公的サービスの金額と、生涯に支払わないといけない公的負担の金額にアンバランスが生まれています。公的サービスには年金の支給額が含まれますし、公的負担には年金の掛け金や健康保険の負担金が含まれます。それで比較しますと、高齢の方と若い人では生涯で差引1億円もの格差が生じています。高齢の方は納めた金額よりも多くのサービスを受け取り、若い人は納める金額よりも少ないサービスしか受け取れないということです。この矛盾にアベノミクスはメスを入れることができるでしょうか。
この問題はとても深刻な話で、その頃には筆者もあの世に着いているかもしれませんが、皆さんはまさにそういった重荷を背負うことになりますので、少し真剣に年金と健康保険のことは調べておいた方がよろしいと思います。
そして、できるならばご自分のご家庭でご両親、おじいさんおばあさんを交えて議論されてはいかがかと考えますが、いかがでしょうか。

C「アベノミクス」

皆さんが来春、あるいはその先で社会に出たときに直面するのは、その時点で日本の経済がどうなっているのか、ということです。ご承知のように就職には氷河期(買い手市場)もあればバブル期(売り手市場)もあります。その多くは、その時点での経済状況にあります。
そういう意味で、今回は二回に分けて、日本の経済に大きな影響を及ぼすと考えられる安倍首相の経済政策、通称アベノミクスについてお話を差し上げたいと思います。

アベノミクスという言い方は、サッチャーやレーガン、あるいは小泉元首相と竹中平蔵氏が進めた“新自由主義”の延長線上にある、と言えるでしょう。
要約すれば、政府の関与する割合をできるだけ減らし、市場に多くを委ねようという考え方です。
これは、かつて一世を風靡したケインズ流の「政府による市場の管理」という考え方が結果的に政府部門の肥大化と競争力の低下を招いたことへの反省として、政府による規制を緩和し、自由競争に基づく経済の活性化を目指すものと言えます。
以前、「よいとこどり」はできないとお話をいたしました。政府による高いサービスと、低い税金のどちらを選ぶかと迫られれば、“新自由主義”ではいささかサービスは低下しても税金を減らしましょう、という考え方になるでしょう。
ちなみに、ここで「何故」を働かせれば、Wikipediaでケインズを調べ、その反語であるハイエクを調べ、新自由主義を調べ、となりますね。

では、実際にアベノミクスは何をして、何をしようとしているのか、となりますと、それは三つの段階に分かれるでしょう。
第一の段階は、禁じ手とも言える日銀の市場への介入です。政府が発行する毎月10兆円もの国債はこれまでその多くが金融機関に買われていました。金融機関は金融資産をより高く、より安定したところで運用して利益を得る訳ですが、企業や個人への無茶な貸出が多くの不良資産を生んだバブル経済の痛手から、金融機関では企業や個人への貸出よりも利率も償還も間違いの無い国債での運用を選択するようになりました。これでは、いくら市場へ資金を投入しても国債に変わるだけで、実際に資金を必要としている企業や個人へは資金が廻りません。これでは困るので、日銀は毎月7兆円もの国債を市場から買い付けることにしました。いわゆる金融緩和で、これは政府が発行する国債の7割ですから、政府が発行した国債を日銀が買う、いわば日本という国が自分の右手と左手でお金のやり取りをしているようなものですが、いずれにせよ日銀は金融機関から国債を吸い上げ、その代わりに資金を金融機関へ供給しているというのが今の金融市場の状況です。そして、資金を手にした金融機関には、それを企業へ貸し出せ、と政府が迫っている格好です。

第二の段階は、日本が今後伸ばしていこうという産業や社会領域を絞り込み、そこへ政府の支援を集中させようと言うことで、これはこの前の成長戦略第一弾で安倍首相が発表したとおりで、医療と人材活用を成長の主軸に据えようという話です。民主党政権時代における円高の結果、日本の国際収支は赤字に転落し、多くの企業は経営難と海外脱出に直面しましたから、金融緩和で円安に導く間に(これで企業経営は当面黒字へと向かいます)、何とか次の成長産業を育てて、日本経済を再生しようという流れです。

第三の段階が本丸の規制緩和です。新自由主義路線では欠かせないキーワードで、要するにこれまで政府の規制で守られてきた保護(非競争)領域を開放し、国際的な競争に耐えられるだけの地力をなかば強制的にでもつけさせる、ということになります。それが小泉元首相の時には郵政改革であり、今回のアベノミクスでは農業、金融、医療、サービスといった領域になるでしょう。もちろん、TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)への加入はまったなしですので、それに伴い規制緩和というムチと、財政出動というアメを織り交ぜる、というのが安倍首相の腹のうちと見て間違いありません。

こうして見ますと、安倍首相は前回の反省、小泉元首相の反省に立って、慎重にことを進めようとしているのがよくわかります。新自由主義的な喫緊の課題は規制緩和ですが、それを最初に持ってくると反発が心配されますから(既得権のある人たちの反撃は郵政改革でもおわかりでしょう)、まずはお金をじゃぶじゃぶ日銀に出させ、次に伸ばす領域を指し示し、最後に規制緩和を持ってきた、という筋書きはなかなか考えたものです。問題は、規制緩和を待つ時間が許されるかどうか、ここでしょう。国際的な規制緩和の流れに乗り遅れないかどうか、また、規制緩和という劇薬が引き起こす副作用への備えを準備できるかどうか、その辺は時間との勝負になると思います。

さて、アベノミクスを一回で語り切るのは難しいので、次回にアベノミクスが皆さんに及ぼす影響という観点でお話したいと思います。

F「気をつけるべき動機」

前回は動機と仕事の話から、「選ぶ段階で嫌いな仕事を選んではいけません」ということと、「選んだ仕事に専念すれば、その仕事を好きになる確率が高いです」ということをお伝えいたしました。
今回は、どうにかして避けたい事態のお話です。

企業社会で非常に多く発生するのが「管理職鬱病」です。酷い場合には休職や自殺にまで追い込まれるケースがあります。
考えてみますと、企業の中で昇進する訳ですから、「何故そうなるのか」「入社した時点で管理職や経営陣を望まなかったのか」という疑問もお持ちかと思います。
しかし、行動科学的な見地からすれば、「管理職鬱病」に追い込まれた方の社会的な動機と、管理職昇進の間に一種の不一致があったとも考えられます。
ほとんどのケースがそうなのですが、権力動機の希薄な方が管理職へ昇進しますと、職責として部下に従わせ、部下を支配し、部下を統率しなければならないのですから、これは大変です。そもそも、権力動機=他人に影響力を及ぼし、時には支配することを欲する気持ちですので、それが希薄であれば、できるだけ他人に影響力を及ぼさず、支配するなんて考えてもいない自分と、職責との間に極めて二律背反的な状況が生まれます。この状況に耐えられなければ、人はそこから逃げるしかありません。辞めるという逃げ道を選べなければ、鬱病が待っている、ということになります。

また、これは実際に起こったのですが、○○県で県知事が交替し、前の知事時代の裏金事件が発覚し、その内部調査の責任者を命じられた58歳の総務部長さんが自殺したという痛ましい事件がありました。
皆さんは県の総務部長さんがどういう立場かお分かりにならないと思いますので、少し説明しますと、県の組織では知事、副知事、出納長の次に位置する役人で、知事は選挙で、副知事や出納長は県議会の同意で選ばれますので、純粋の役人としてはNo.1という立場です。そこに58歳で至っているということは、県の役人としてはエリートであり、順調に昇進を重ねてきたと類推されます。
では、何故こうした方が自殺に追い込まれたのか、ということになりますが、彼自身が裏金事件に関与していたのではありません。では、何故でしょうか?
真実は存じませんが、行動科学的に考えますと、こういう類推が成り立ちます。
まず、彼の社会的な動機の構成で押さえておかなければならないことは、達成動機は基本的に強いであろうということです。それは、県の総務部長さんともなれば、かなりの学歴をお持ちでしょうから、それだけの学歴を得るには、あの無味乾燥な受験競争に勝ち抜いてきたのでしょう。そうしますと、よほどの達成動機が無ければ、勝ち抜けなかったでしょうし、県に入ってからの昇進競争でも達成動機が勝利に貢献したでしょう。

そうしますと、残る親和動機と権力動機の構成が重要な鍵になりそうです。
筆者はこう類推します。おそらく、彼は親和動機が強く、権力動機が希薄な方だったのではないでしょうか。裏金事件を調査すればするほど、昔の上司や同僚、部下の関与が明らかになり、彼らを断罪する痛みを強く感じたのではないでしょうか。
また、仮に権力動機が強い方であれば、内部調査を自己顕示する絶好のチャンスと捉えたはずです。競争相手の派閥で関与している人物を見つければしめたもの、そうでなくても成果を挙げれば知事の評価は高くなり、副知事~知事への道も夢ではありません。
しかし、彼がそうではなかったのでしょう。「やり遂げなければならない」という達成動機と、「知り合いを罪に落としたくない」という親和動機の対立が彼を自殺へ追い込んだ、とも考えられるのではないでしょうか。

どちらのケースでも重要なのは、Homeostasisとして誰にでも備わっている回避動機に従えばよかったのです。鬱病になる前に管理職を退くか、会社を辞める。内部調査の途中で責任者を断るか、総務部長を退くか、県を辞める。そうすれば、最悪の選択と言える鬱病や自殺に陥ることはありません。
このように、仕事と動機が二律背反に至ると(本当に嫌いな仕事を押し付けられると)、人間はとんでもない行動に走ることがあります。ですので、皆さんもそうしたぎりぎりの選択を迫られたときには、自分の社会的な動機の構成を、回避動機も含めて考えてみると、最悪の選択を防ぐことができるでしょう。

ただし、間違えてはいけないのは、どんな人間でも新しい仕事や新しい職責(例えば管理職)では必ず壁に突きあたるということです。こうした仕事の壁と、動機と仕事の不一致を取り違えてはいけないのです。まずは、新しい仕事や職責ときちんと向き合って一所懸命に努力する、努力してもうまくいかなくてももう一度努力する、何度努力しても駄目で、そのうち眠れなくなる、酒量が増える、胃が痛む、そうなったらはじめて動機と仕事の不一致を疑ってみるとよいでしょう。
都合三回にわたって、いささかしつこく「動機」の話をいたしましたので、次の「価値観」の話はもう少し後にしたいと思います。

F「動機と仕事」

前回は人間の一番奥深い層に存在する動機をお伝えし、その中の社会的な動機について詳しく見てみました。今回は、社会的な動機と仕事との相関関係を考えてみましょう。
例えば、時代劇でよく出てくる腕はよいが、気難しい木彫りの職人さん、左甚五郎のような方を考えてみましょう。
彼の動機は、間違いなく“達成動機”です。
とにかくよいものを作る、誰よりも作品の質にこだわり、何でも鑑定団風に言えば、「いい仕事をしていますね」という評価を何よりも大切に思う。でも、他人とうまく付き合おうなんて考えてもいないし、左甚五郎工芸センターなんて会社の社長になろうとも思わない、それどころか弟子をとるのも嫌、お客さまでも作品のわからない野暮天は断る。こんな感じですよね。ですので、達成動機100点、親和動機と権力動機はゼロに等しい。
要するに職人さんには達成動機さえあればいいのです、それで幸せなのです。

例えば、毛沢東やヒットラー、あるいはサダム・フセインのような政治家を考えてみましょう。
彼らはどう見ても“権力動機”の申し子です。あくなき支配欲、征服欲、歯向かうものは誰でも許さない、強力なマンパワーのリーダーです。その政治の内容や方向性は別として、この種の政治家に共通しているのは、強烈な権力動機なのです。そして、その支配下にある多くの人たちを幸せにも、不幸せにも導いて、それに何らの痛痒も感じない。まさに、天が与えた権力の申し子のようなものです。

このように、社会的な動機と仕事が同期している場合、信じられないほどの成果を挙げることができますし、本人も充実し、幸せと言えるでしょう(周りの人間がどうかは別として)。
しかし、それは天から与えられた明確な動機を持っているごく少数の人だけのことです。そうした場合、彼らは天職、即ち「生まれ持って大好きな仕事」を楽しんでいるのです。

残念なことに私たち凡人は、さほど強烈な動機を持っていません。
朝から晩まで仕事のことだけを考え、朝はどの社員より早く会社に行き、夜は遅くまで顧客への営業や部下を捕まえて仕事の話、あるいはデスクでキャッシュフローの計算、そういう経営者を見受けますが、彼らにはまさに強烈な動機があり、かつ動機と仕事が同期していて、経営者であることが幸せで幸せで仕方ないのです。彼から仕事を取り上げたら、死んでしまいかねません。しかし、私たちはそうはなれません(なれる人はそれでよいのです)。
そもそも、何が好きな仕事か、ということがわからない、そもそも自分は本当に何が好きなのか、ということさえわからない、それがほとんどの私たちではないでしょうか。
要するに、好きなこともはっきりしていないし、嫌いなものもはっきりしていない、強烈な動機がないので、ある意味では柔軟な存在が私たち凡人なのです。
では、動機なんて意味無いじゃないの、というご意見もあるかもしれませんが、決してそうではありません。

私たちは多くの場合、「好きか嫌いかわからないが、少なくとも嫌いではない」という仕事につくことになります。これは自分の社会的な動機と反発するものが少ない選択をした、とも言えます。
こうした場合、筆者の師である佐久間陽一郎さんは「好きなことが最初からあるのではなく、選んだ仕事に専念しなさい、そうするとだんだん好きになる、好きになると次から次へと興味が湧いてくる、そのうち大好きになる」と言います。なるほどです、何故ならば私たちは凡人なのでそもそも柔軟性に富んでいるのです。
でも、どうしても好きになれないときは、そうです、辞めればよいのです。と言いますか、選ぶ段階で「嫌いだ」と思う仕事は選ばないことです。どうしても好きになれないケースの多くは、そもそも選んだときから「嫌いだったが仕方なく」ということのようです。

さて、動機と仕事の関係を少し整理しましたが、ここで申し上げたいことは「選ぶ段階で嫌いな仕事を選んではいけません」ということと、「選んだ仕事に専念すれば、その仕事を好きになる確率が高いです」ということです。
では、社会的な動機に反する仕事(嫌いな仕事)を迫られたとき、人はどんな不幸に陥るか、次回にお話を差し上げたいと思います。

F「動機の話」

人間の能力の中で一番表面の層に存在するのが「知識」だ、という話を差し上げました。
一番表面にありますから、もっともその存在や質量がわかりやすく、それを計ることが多くの競争試験のあり方になっています。

では、その逆に人間の一番奥深い層に存在するのは何でしょうか。
人間が何かを行おうとする際に、それを目的どおりに実行し、成果をあげることができる力を「人間の能力」だとしますと、ここで議論したいのは、人間が何かを行おうとする、その行おうと人間を向かわせるもの、それを「動機」と言います。
この「動機」が無ければ、そもそも人間が何かを行おうとすること自体がありえません。
従って、D.C.マクレランド教授の提唱した行動科学(behavioural science)では、人間の能力の中で一番奥深い層(人間の意識の最下層)に存在する要素を「動機」と考えています。

「動機」、言葉を変えますと、人間が行動を起こしたり、決断をしたりする直接の原因、または目的。あるいは、「欲望」かもしれませんし、「業(ごう、karman)」かもしれません。
この「動機」とより深い層で向き合おうとするのが、宗教であり、哲学なのでしょう。しかし、ここではそんな難しい話はいたしません。

筆者は(と言いますか、行動科学では)、「動機」を生物的、生理的な動機(Homeostasis)と社会的な動機(Social Motive)に分けて考えます。そして、Homeostasisは議論しません。何故ならば、それをどうこうすることが行動科学の問題ではないからです。
しかし、ここではHomeostasisから話をはじめたいと思います。
生物的、生理的な動機とは何でしょうか。
これは、生き物が一定の安定した状態から外れたときに、不安定さを解消し、安定した状態に復元しようとする、ある種自動的な生体メカニズムです。
例えば、長時間エネルギーを摂取しませんと、人間は空腹感を覚え、何かを食べようとします。これが「食欲」というHomeostasisです。
あるいは、長時間眠りませんと、人間は睡魔を覚え、とにかく寝ようとします。これが「睡眠欲」というHomeostasisです。
あるいは、人間が単独で生きていますと、家族という群れを求め、子孫を残そうとします。これが「性欲」というHomeostasisです。
こういう具合に、Homeostasisには飢え、渇き、性、睡眠、呼吸、排泄、苦痛の除去、適温維持など、安定した状態を保とうとするさまざまな生体メカニズムを持っています。また、その生体メカニズムは人によって構成が若干異なります。それは、安定した状態というもの自体が個別微妙に違うからです。
しかし、行動科学ではこれを論じません、そのバランスがめちゃめちゃにおかしくても、それはお医者さんにお任せする領域です。

では、行動科学が相手にする社会的な動機(Social Motive)とは何でしょうか。
ここではD.C.マクレランド教授に基づき、四つに絞ってお話を差し上げます。
第一の動機は、達成動機です。
達成動機とは、高い目標を達成したい、さらにそれ以上になりたいと欲する気持ちで、そのために自分のやり方を工夫したりします。もっと早く、もっと強く、もっとたくさんできるように、と願い、誰かに負けている自分が許せないと思うこともあります。
第二の動機は、親和動機です。
親和動機とは、他人との近く親しい関係を欲する気持ちで、他人を慰め、労わり、気を遣うことを惜しみません。他人との新しく心地よい関係を望み、社会的な集団活動を好みますが、孤独には耐えられません。
第三の動機は、権力動機です。
権力動機とは、他人に影響力を及ぼし、時には支配することを欲する気持ちで、そのために主張を貫き、自分に対する服従や従順を求めて他人を説得します。求められてもいないのに助言や指示を与え、他人や社会に自分を強く印象付けようともしますが、地位や名声、権力を得る代わりに、大きな責任を背負うことを厭いません。
第四の動機は、回避動機です。
回避動機とは、争いを避け、失敗を恐れ、責任を背負うことから逃げようとし、そのためならば成功を捨てることも選択します。社会的な動機というよりも、Homeostasisとして強弱はあるものの誰にでも備わっている動機です。

この四つの動機で私たちの社会的な動機が構成されており、人によって構成のバランスが異なっていて、そのバランスに応じて人それぞれ固有の特質(即ち個性)があるのです。
例えば、親和動機は高いけれど、達成動機や権力動機の低い人もいれば、権力動機が高く、達成動機や親和動機の低い人もいます。
こうした動機の構成によって、人間が社会的に生きる際に行動が拘束される、あるいは動機と仕事や能力が同期する(synchronize)と大きな成果を生む、というように考えられますが、実はこうした社会的な動機の真相は見極めるのが難しく、本人ですら見誤ることがあります。
それは、私たちが動機に辿り着く前に「価値観」という動機を制御する仕組みが存在するからですが、「価値観」の話は少し先に置きまして、今はこの社会的な動機について、もう少し掘り下げてみましょう。

F「学ぶ際のコツ」

能力を伸ばすためには「学ぶ」ことが必要です。
しかし、「学ぶ」ということはなかなか難しいものです。

筆者は、出会いは基本的に偶然だと考えています。
しかし、出会いを活かすためには日頃の準備やその後の関係構築力的なフォローが必要で、その意味では出会いを活かせるかどうかは偶然ではなく、自ら招く必然だと考えています。
そして、人間は生きている間に驚くほど多くの出会いをします。
その出会いの中には、「この人はすごい」と感じる出会いもあります。
そういうとき、筆者はそう感じさせていただいた人から「学ぶ」ということを基本にしています。
また、その人から紹介された人間であっても、書籍であっても、企業であっても、「その人が紹介するのだから」と考えて、とにかくそれに乗ってみることにしています。
その方が、やみくもに訳のわからないものに乗るよりはリスクが少ないと思うからです。

筆者の59年にわたる人生の中で、もっともインパクトの大きかった出会いは、佐久間陽一郎さんという経営コンサルタント(日本工業大学社会人大学院教授)です。
これは“強烈”でしたし、今でもお会いすると“強烈”です。
毎年12月29日に上野の蕎麦屋でお酒をともにさせていただくのですが、その日は今年一年の筆者的懺悔であり、佐久間陽一郎さんから“強烈”に叱咤される日なのです。
しかし、これをしませんと、一年の厄を落とせませんので、「怖い」のですが、覚悟を決めてお会いします。

さて、その佐久間陽一郎さんが「学ぶ」に際しての興味深い著作を公開されていますので、ご紹介しましょう。
それは、「幸せな仕事人になるためのキャリア・デザイン・ハンドブック」というもので、福島県商工労働部のサイトで公開されています。
http://www.pref.fukushima.jp/industry/report.html

実は、筆者がこの連作コラムで紹介する「能力」に関する内容は、ほとんど佐久間陽一郎さんから学んだ、あるいはコピーした、あるいは影響を受けたものです。
ですので、そのネタ本をお教えすると、筆者の商売もあがったりですが、これはいわゆる「ホンモノ」ですので、お時間があればぜひご一読ください。そうしていただけると、このコラムの意味がより深いところで理解できると思います。

また、これ以外にも佐久間陽一郎さんの著作はたくさんありますので(10年後のカイシャイン、取締役革命、ダウンサイジング、イノベーション・カンパニーなど)、機会があればぜひご一読ください。すべて絶版ですが、アマゾンで購入可能です。

ちなみに佐久間陽一郎さんご本人は、常にプロ意識の中で生きている方で、他者にもプロ意識を強く求めますので、ご一緒すると緊張の連続です。筆者は15年以上のお付き合いの中で、何度もそうした事件に遭遇しています。
そのうちの一つをご紹介しますと、ご一緒に台北を旅していたとき、空港からホテルまでの送迎のバスが、ホテルへは直接行かずにお定まりのタックスフリーの土産品店へ立ち寄ろうとした際、佐久間陽一郎さんはバスの中ですっくと立ち上がり、「私たちの貴重な時間を土産品店で浪費させる、そんな内容は私の結んだツアー契約には入っていない、まっすぐホテルへ行きなさい」と抗議をするのです。これには驚きました。
ところが台北人もしたたかなもので、これまで日本語で会話していたガイドが、急に日本語がわからないふりをして、中国語(たぶん福建語)でわけのわからない回答をしているうちに、バスはいやおう無く土産品店に着いてしまい、他の日本人はぞろぞろとバスを降りて、土産品店に入った、という笑い話です。
しかし、普通の日本人がこうしたプロテストを外国でするでしょうか、なかなかできるものではありません。さすが、わが師、佐久間陽一郎さんです。

F「人間の能力~知識~」

皆さんが中小企業や小規模事業者で活躍するには能力を磨く必要があり、能力を構成する要素には価値観、コンピテンシー、スキルなどがある、という話をしてきましたが、今回は「知識」のお話です。

「自分の能力をどうしたら伸ばせるのか」という質問がよくあります。
若い人にとっては重要で、かつ切迫した課題なのでしょう。
それにお答えするには、能力とはそもそもどういったものなのか、どういった要素で構成されているのかを明らかにする必要があるでしょう。
そうでなければ、やみくもにハウツー本を読んで、何となく能力が伸びたような気分になるだけのことです。

しかし、実はこれが難しい問題で、見方によっても、あるいは人によっても、あるいは学説によってもさまざまなのが現状です。
そこで、一つの尺度として、こういった要素で能力を考えたらどうでしょうか、という提案をこれから数回に分けて差し上げたいと思います。そのうちいくつかは、これまで触れてきたものです。
それは、「知識」「スキル」「コンピテンシー」「価値観」「社会的動機」という多層的な構造(氷山モデル、表層に知識、そしてスキル、コンピテンシー以下が順番に積層となり、表層が小さく、下層ほど大きい下膨れの構造体)として能力を考えることです。

振り返ってみれば、あらゆる競争試験は「知識」の量と質を問うものです。
皆さんが通過してきた受験勉強がその最たるものですし、あるいは公務員試験にしても、入社試験にしても、その多くは「知識」を問うものです。
なぜ、競争試験では「知識」を問うのでしょうか。
それは、多層的な能力の構造の中で、「知識」は氷山モデルのもっとも表面の層(レイヤー)に属しているので、判別しやすいのです。
知っているかどうかは、聞いてみればすぐわかる、ということです。
ですので、この「知識」という能力の一部分はある意味では獲得しやすい、という言い方もできます。
まったくもって後天的なもので、その気にさえなれば(例えば本を読めば)、「知識」は手に入れることができます。
ただし、こうした「知識」は記憶というホモ・サピエンス独特の収納システムを通過しないかぎり、失われやすいものです。
皆さんも、そろそろ試験勉強で得た「知識」を失いつつあるのではないでしょうか。

「知識」は、少なくともその気にさえなれば獲得することができるとして、それを蓄積し、あるいは応用するには、どうしても記憶しなければなりません。
しかし、この記憶という能力の一部分は人さまざまで、必ずしも平等に与えられている天賦の才ではありません。
記憶の容量は、記憶する情報をどう整理できるかによって大きく変わります。
考えて欲しいのですが、箱に箸を詰めるとして、バラバラっと上から箸を押し込んでも、箱にはそう多く入らないものです。
しかし、箸を上下左右に整理して、順序正しく収納すれば、箱には驚くほど多くの箸が入るものです。それは、何故でしょうか?

記憶する情報の整理も同じようなもので、情報と情報を結びつける、順序立てることによって、隙間無く情報を収納することができます。
そのためには、情報を単なる情報に終わらせるのではなく、情報の根源を常に「何故(なぜ)」という問いかけとともに掘り下げることです。
そうすると、論理という糸で情報は相互につながり、整理しやすくなると思います。
情報を個々の情報として独立させるのではなく、相互の関係を「何故(なぜ)」で結びつけてゆく、この作業が重要なのです。
そして、それを上手に行うには、このあと「スキル」というところでお話しますが、論理的思考力(ロジカルシンキング)という「スキル」を向上させる必要があるのです。

また、「知識」の総括的なイメージとして何を目指せばよいのか、という指標には、先に立花隆の話で紹介しましたが、「日本経済新聞をはじめのページから最後の文化欄までをちゃんと理解できる」、これが身につけるべき「知識」のとりあえずの全体像と考えてよいと思います。

C「法律と私たち」

法律というものは、よほどのことが無いかぎり、私たちの生活に直接向き合ってくるものではありません。
漠然と、○○はしていけないんだ、というような感じだろうと思います。
しかし、皆さん、これから社会に出る人たちは、少なくともこれからご紹介する法律の話を覚えておいた方がよいと思います。

その一つは、労働契約法の改正です。
これは、現在の日本で約1,400万人、働いている人の4人に1人が有期雇用、簡単に言いますと期間を定めた雇用のことで、正社員以外(アルバイト、パート、契約など)はほとんどこの範疇に含まれます。この有期雇用を5年以上続けると、本人の希望で正社員(定年まで働ける)にしなさい、という内容です。
一見、「いいんじゃない、正社員が増えて」と思うかもしれませんが、現実の社会はそうではありません。
筆者はこの法改正が成立すれば間違いなく「雇い止め」が多発し、有期雇用の人たちが職場を失うことになると警告してきましたが、実際に全国各地で「雇い止め」が続発しています。簡単に言いますと、「1年契約を長い間更新してきたパート従業員の契約を次からは更新しない」「4月以降から契約更新は最長で4年11カ月まで」、こんなことが続発しているのです。
どの企業であったとしても、安直に正社員になどしたくはありません。そもそも正社員にはさせなくてもすむ仕事だ、と考えて有期雇用しているのですから、それを正社員にして、定年まで職場を保証するリスクを取ることはしないのが当たり前です。
皆さんは、正社員から社会参加をスタートされる確率が高いでしょうから、あまり関係は無いかもしれませんが、そうではない道を選んだ場合(有期雇用)、5年未満で職場を失う危険性が高いと覚悟しておいた方がよろしいと思います。

もう一つは、高年齢者雇用安定法の改正です。
これは、現在60歳定年をしている企業は、本人(正社員)が60歳以上の雇用を希望した場合は、もれなく65歳まで延長して雇いなさい、という内容です。
これも一見、「長く働けていいんじゃない」と思うかもしれませんが、現実の社会はそうではありません。
基本的に企業が必要とする正社員の数には限りがあります。そうした中で、定年を5年延長するということは、それだけ新規雇用を減らすという結果を招きます。
そうなりますと、皆さんのような若い人の就職機会はそれだけ減ることになります。

もっと問題なのは、この5年延長が年金とリンクしているからです。要するに、年金会計がピンチなので、年金支給を5年後送りにする、そうすると無収入期間が出てしまうので、それを定年延長で穴埋めしようということです。
これは、見方を変えれば年金会計という問題を若い人の就業機会を減らすことで辻褄合せしようということにもつながりかねないのです。
年金会計における若い人の過剰負担という問題もある中で、さらにそれに輪をかけるように若い人の就業機会を減らす、実に不思議な話ではないでしょうか。

そして、さらに悲惨なのは55歳で再就職をしなければならない人たちです。この人たちを有期雇用で5年以上雇えば、60歳で正社員になり、本人が希望すれば65歳まで定年を延長しなければならない、そんな高いリスクを犯してまで、こういう人を長期間雇おうという企業はまずありえないと思うのです。
そういう意味では、この二つの法改正には大きな問題が隠されている、と筆者は考えています。

あまりこれまでお考えになることの少なかった法律(法学関係の方は別として)、しかし、それは皆さんのような若い人にも影響を及ぼすものなのです。これを機会に、日本経済新聞の記事で法律改正の話が出ていたら、注意して読むのも悪くないでしょう。
法律は知らない人には不利に働くもので、皆さんが中小企業や小規模事業者で働く際にも、必ず法律の知識を試される機会が訪れるからです。

B-B「中国を知る②~暴をもって暴に報いることなかれ~」

「中国」のことを考える際に忘れてはならないのが、かつての不幸な時代です。この歴史に関する知識がなければ、中国との間で不要なトラブルに巻き込まれかねません。それは、何度も日本の首相が言及しているように、中国にとってはもちろん、日本にとっても不幸な時代だったということです。そのことに少し触れたいと思うのです。

昭和20年8月15日、そうです、あの悲惨な戦争が日本の敗戦で終わった日です。
その当時、日本の兵隊さんはアジア各国や太平洋の島々をたくさん占領していましたが、この日を境に敗残の兵となりました。
戦場となった現地の人々へいろんな損害を与えてきた訳ですから、当然、この日を境としてその報いを受けることになりました。
もちろん、中には善政(比較的)を敷いていたので、恨まれることなく帰国の途につけた兵隊さんもたくさんいますが、それはかなり運の良いほうであったと言えるでしょう。

この中で最大の兵隊さんが残されたのが他ならぬ中国戦線です。
1931年9月18日の満州事変にはじまったあしかけ14年にわたる戦争でしたし、北はソビエト国境の満州の地から、南はミャンマーと接する雲南省まで、広大な中国大陸に170万人を超える兵隊さんが残されることになりました。
このうち、悲惨を極めたのは満州に残された66万人の兵隊さんで、そのほとんどはシベリアへ抑留され、極寒の大地で帰らぬ人となったのです。また、兵隊さんのほかにも、たくさんの民間の方々、開拓の人々も命を落とすことになりました。

中国本土の100万人を超える兵隊さんも自分たちがどんな目にあわされるか、それこそ生きた心地もしなかっただろうと思います。
そうした中、時の国民党主席であった蒋介石は終戦の日に中国国民へ大演説を行いました。これが有名な「暴をもって暴に報いることなかれ」です。ごく簡単に要約しますと、「もしも暴力でこれまでの彼ら(日本陸軍)の暴力に報い、凌辱をもつて彼らの誤った優越感に応へるならば、恨みは恨みを呼び、永久に繰り返されるだろう。我々はただ彼らに憐憫を示し、彼らをして自らその錯誤と罪悪を反省させようとするだけである。」、どうでしょうか、なかなか言えるものではありません。そして、ほとんどの兵隊さんは無事帰国の途につくことができました。筆者の伯父は中国戦線におりましたが、アメーバー赤痢に侵され、帰国の途上、残念ながら中国湖南省で帰らぬ人となりました。

一方、先日の国会で安倍首相はこういう答弁をしました。
東京の新大久保や大阪の鶴橋という在日外国人(主に朝鮮半島出身者)の多い地域で、連日繰り返されているヘイトデモ(○○を殺せ、○○を叩き出せ、というような過激で差別的なシュプレヒコールを叫ぶデモ)に対して、「一部の国や民族を排除する言動があることは極めて残念であり、他国の人々を中傷することで、我々が優れているとの認識を持つのは、我々を辱しめること。日本人はまさに和を重んじ、人を排除する排他的な国民ではなかったはず。どんなときも礼儀正しく、寛容の精神、謙虚でなければならない。」といった答弁です。

答弁自体は当たり前のことですが、筆者が指摘したいのはヘイトデモがはじまったのは2月で、3月には毎日新聞で取り上げられるほどの社会問題となっていたにも関わらず、日本政府の公式見解は5月というこのタイムラグです。
蒋介石の行った終戦当日の大演説と比較しますと、明らかに遅すぎますし、その内容もどうでしょうか、心なしか迫力に欠けていると思います。
それでも、一国の首相がここまで言ったという事実にはそれなりの敬意をはらいたいと思います。

そして、「暴をもって暴に報いようとする」ヘイトデモ参加者には、蒋介石が示そうとした「徳」のかけらも無いことは言うまでもありません。
古来、東アジアでは「徳」という概念で敵にさえ許しを与える、そうした精神を尊んできましたが、今日の日本ではヘイトデモを野放しにするほど、「徳」が衰えているということではないでしょうか。
皆さんにとっては遠い昔の話かもしれませんが、これから皆さんが中国やアジアを相手にするときに、ぜひ覚えておいてください。「暴をもって暴に報いることなかれ」ということを、です。

A「人口第10位」

日本の今後は国際展開にある、と多くの人は考えています。また、日本企業の市場開拓は世界を目指していて、中小企業や小規模事業者にとっても海外のお客さまを獲得することが重要になっている、と言われています。しかし、その割には今の私たちは世界のことを知っているでしょうか。今回は、「人口」をテーマに世界を考えてみたいと思います。

中国、インド、アメリカ、インドネシア、ブラジル、パキスタン、ナイジェリア、バングラディッシュ、ロシア、日本、メキシコ、とくれば何の順番でしょうか。
実はこれが現在1億人以上の人口を抱えるトップイレブンなのです。
そして、この順番はフィリピン、ベトナム、エチオピア、エジプト、ドイツ、イラン、トルコ、タイ、ミャンマーと続くことになります。

皆さんは欧米諸国がいわゆる先進国で大国だ、と思っているでしょうが、彼らの大きな問題は人口の少なさにあります。
人口の多い順番に国の名前を挙げなさい、と言いますと、決まってフランス、イギリス、オーストラリア、カナダなんてのが挙がってきますが、実際は影も形もありません。

2050年の地球は人口が100億人になると予想されていますが、そのうちの50億人はアジア、20億人はアフリカ、欧米などは全部足しても30億人ということになります。ちょっと面白い話ではないでしょうか。

筆者が申し上げたいことは、皆さんに必要なリベラル・アーツに加えるべき知識や経験は、まさにここにあるのではないか、ということです。
人口の増加は、輸出輸入という貿易でも、あるいは開発でも、あるいはサービスや資本の提供でも巨大な市場を意味します。
まさに、21世紀とはアラブを含めたアジアとアフリカの時代と言っても間違いではなさそうです。なにせ、世界の人口の7割を占めようという地域です。

しかし、皆さんはアラブを含めたアジアやアフリカの何を知っているでしょうか。
彼らの民族組成、言語、歴史、文化、そして何よりも宗教を知っているでしょうか。
トルコがモンゴロイド(黄色人種)で、イランがコーカソイド(白色人種)であると知っているでしょうか。
ユダヤ教とキリスト教とイスラム教では、旧約聖書が共通の聖典であると知っているでしょうか。
アルメニア人とは誰であって、フランスがアルメニア人を理由にして、トルコのEU加盟に反対しているのはなぜでしょうか。
エチオピアの人たちは何を食べているのでしょうか。
まあ、キリがありませんからこの辺で止めますが、筆者の見るかぎり、日本人の多くは外国=欧米諸国と考える割合が異常に多いような気がしてなりません。

日本はこれからも貿易、あるいは海外とのさまざまなやりとりで食べてゆくことになります。当然ですが、そうした中にはサービスや資本、観光を提供することも含みます。
その意味では、欧米諸国を知っていればよい、という時代は終わりました。

そう考えますと、アラブを含めたアジアやアフリカに関する知識や経験を積み上げることは、皆さんにとって、リベラル・アーツをベースとして、未来へ向けたかなり効果的な先行投資になると思いませんか。

B-B「中国を知る①~嗜好品の誕生~」

皆さんが社会に出て、さまざまな経済活動に参加するようになると、必ず皆さんが付き合わなければならないのが「中国」という巨大な経済圏です。中小企業であれ小規模事業者であれ、もちろん大企業であれ、この大きなマーケットと無関係には生きられません。
直接ものを売る、あるいはものを造る、あるいは原材料を確保する、あるいは労働力を確保する、どんな形態であれ日本と同じ規模にまで成長し、さらに成長を続ける「中国」は重要な経済圏として存在し続けるでしょう。
しかし、残念なことに日本人の多くは中国を知りません。現在の中国はもとより、過去の中国も、です。
そこで、このコラムでは中国の過去と現在、そして未来についてもさまざまな情報を提供しようと考えています。今回は、その中の過去、しかもかなり古い過去、殷(いん)のことをご紹介したいと思います。以前「商人」の話で少しご紹介しましたが、その殷です。

殷という王朝、今から3,700年から3,100年ほど前に中国に実在した王朝ですが、実によく酒を呑んだ王朝でした。
殷を滅ぼした周の時代(今から3,000年ほど前)に鋳造された「大孟鼎」という青銅器に「殷が滅んだのは貴族も役人も酒ばかり呑んでいたからだ」「そこに引き換え我々は呑んで乱れるなんてことはないので天命を受けて殷を滅ぼすことができた」と書いてあるほどです。
有名な殷の青銅器も、そのほとんどが神に捧げる生贄を盛る器とか、酒を呑む器のようです。では、なぜ殷の王朝ではこれほども酒を呑んだのでしょうか。

ここから先は筆者の解釈がかなり入っていますので、真偽は保証できませんが、お許しください。
それは、殷の前の夏(か)という王朝が滅んだことと関係があると考えています。
夏は、今から4,100年から3,700年ほど前にあったと考えられる王朝で、司馬遷の史記もこの夏から歴代王朝の記載をはじめています。
しかし、まだ文字が見つかっていないので、夏と思われる遺跡(河南省の二里頭遺跡が代表)はたくさん発見されていますが、いまだ確証には至っていない状況です。
そうした夏と思われる遺跡から発掘された身分の高い女性の人骨を調べたところ、首を切り落とされ、下腹部に角が差し込まれているという、極めて呪術的な死因が明らかになったのです。
ここからは推論でしかありませんが、この夏という王朝では五穀(米、麦、大豆、粟、黍)を作り、かなり安定して食べ物が採れていたことから、400年にもわたって長期政権を維持できたと考えられています。
しかし、今から3,800年ほど前から中国の気象が悪化し、大雨や低温、あるいは旱魃や暴風がたびたび発生したと地質学や気象学などのデータから推測されています。
こうなりますと、いくら五穀を作っているとはいえ、飢饉というダメージが夏に襲いかかったのでしょう。
そして、こうした危機的状況の中で夏は殷に滅ぼされてしまった訳です。

そうしますと、殷は夏の滅んだ原因を知っていますから、それだけは避けなくてはならないと肝に銘じたはずです。
これが、殷が神を極端に恐れ、神と交流し、神を鎮め、神と一体化する典型的なシャーマニズムの世界に進んでいった原因ではないかと思うのです。
そうでなければ、殷墟から発掘される人間や犬、馬などのおびただしい生贄の数々、甲骨文字で刻まれた生贄を捧げる儀式の数々は説明できないのではないかと思うのです。
このための重要なツール、神と一体化する媒体こそが酒であった、というのが筆者の結論です。
そして、いつ種を蒔いたらよいか、いつ戦争をはじめたらよいか、いつ祭りを催したらよいか、そういうたびごとに生贄を捧げ、酒を呑んで陶酔状態に入って神と交流する、これが殷の実態ではなかったかと思うのです。
こうして、はじめて酒という「嗜好品(生きるために必須な訳ではないが好まれるもの)」が生まれたのです。

そこで、皆さんにご注意をいただきたいのは、酒とは基本的に陶酔する、神と交流する、要するに訳がわからなくなるために呑むものである、ということです。
ですから、酒を呑み過ぎれば必ずおかしくなるのです。
呑み慣れていない人は、よくご注意ください。
呑み慣れている人は、筆者の年代になれば脂肪肝~肝硬変にご注意ください。
近頃の若い人は急性アルコール中毒で亡くなる、という悲しい事件を起こすのですから。
まったく、親御さんの気持ちになってみてください。

D「挑戦する」

数回にわたり、「人間の能力」についていろいろな角度からお話を差し上げてきました。皆さんが社会、とりわけ中小企業や小規模事業者で活躍する際には欠かせないものです。今回は少し趣向を変えて、私たちが行う「挑戦」のレベルはどの程度のものか、について考えてみたいと思います。何よりも、皆さんがこれから社会に出る、ということも一つの「挑戦」には変わりありませんから。

歴史を辿ると、見知らぬ海を渡る冒険家の話がよく出てきます。
皆さんもコロンブスの新大陸発見や、マゼランの世界一周の話を教えられたとき、どこかわくわくする感覚に囚われたのではないでしょうか。
大海原を越えた先に待っている豊かな大地、限りない富、そして栄光。
もっとも、彼らに征服されたネイティブの人たちにはえらく迷惑な話ではありますが。

さて、そうした海を渡る冒険家の歴史は、何もヨーロッパに限った話ではありません。
今回はそうした海を渡る民の話をお話したいと思います。
ちなみに、皆さんもご存知の宮崎駿監督の「天空の城ラピュタ」のラピュタとは、そうした海を渡る民の一つから取ったものです。

それは、オーストロネシアと一括りにされるモンゴロイドの集団です。
そもそもの起源は恐らく新石器時代に中国大陸の南部に居住していた集団が、北から進出してきたモンゴロイドの新しい集団(今の漢民族の祖形となった人たち)に押されて、紀元前5,000年あたりから南へ南へと移動を続け、台湾~フィリピン~インドネシアへと居住の場を拡げ、そこでバナナやタロイモ(サトイモもその一種)、ヤムイモ(ヤマイモもその一種)などの作物を獲得し、さらにカヌーに乗って、東はハワイ、タヒチ、サモア、トンガ、フィジー、そしてニュージーランドやイースター島といった太平洋の島々へ、西は遠くマダガスカルにまで進出したのです。すごい大冒険だと思いませんか?

こうした海を渡る旅を彼ら(オーストロネシア)は、今から7,000年から1,500年ほど前の時代に、羅針盤も無く、帆船も無く、カヌーに乗って、太陽と月、そして星、風と海流、鳥の示す陸の存在をたよりに太平洋を東へ、インド洋を西へと移動したのです。
筆者は、その移動の原因がなんであったにせよ、ただただ驚くしかありません。
ですから、ハワイやトンガ出身のお相撲さんも(曙や小錦)、イースター島でモアイを作った人たちも、ニージューランドでラグビーの試合の前にあのハカを踊るマオリの人たちも、キツネザルの島マダガスカルに住む人たちも、もちろんインドネシアやフィリピンに住む人たちも、台湾の先住民も、みんな同じオーストロネシアの仲間なのです。

そして、彼らの一部は黒潮に乗って北上し、私たちの住む日本列島にも辿り着き、その血は私たちの遺伝子の一部(5%程度)を占めているのです。
そうなんです、彼らは私たちのご先祖様の一つでもあるのです。
ちなみに私たちの話している日本語にも母音(アイウエオ)が強いという彼らの影響が残っていると考えられています。
日本人の成り立ちについては、別の機会にお話することがあると思いますので、今回は私たちの中にも、海を渡る民、オーストロネシアの血が入っているというくらいで止めておきます。

いずれにしても、こうした冒険家たちの旅を考えますと、私たちが挑戦しようとする冒険などは、ほんのささやかなものだと思うのですがいかがでしょうか。そして、皆さんにもまもなく挑戦の季節がやってくるのです。

F「リベラル・アーツ」

第2話で「商売の原点は困っている人をみつけること」という話をしました。
こういう原則を“普遍性”と言います。
要するに、特定の環境で通じるルールではなく、一般的な環境で共有されても大丈夫なルールということです。
これがベースにあって、その上に“特殊性”や“専門性”が乗っかっている、と考えてもよいと思います。

第6話で出会いの持つ重要性と、出会いのための準備の話をしました。
経路依存症から抜け出すためにはどうしたらよいのか、ということでもあります。
もちろん、お金持ちの家に生まれ、素晴らしいご両親に恵まれ、ここまで何一つ問題も無く今日を迎え、かつ前途も保証されている本当に銀のさじをくわえて生まれてきたような方は(Born with a silver spoon in one's mouth)、その経路依存症を大切にすることです。
しかし、ほとんど多くの普通の人はそうではないでしょう。

筆者は、そのための重要な鍵はリベラル・アーツであろうと思っています。人間の能力を構成する要素で言えば「知識」ということになります。
ここがきちんとできていれば、たいがいのことには対応できるのではないかと思うのです。
いわば、教育における“普遍性”のようなものです。
ただし、この“普遍性”も時代の変遷によって変化はしています。
筆者の尊敬するジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)を生んだ古代ローマ帝国では、貴族に必須なリベラル・アーツは、論理学(ものごとのつながりを明確にし、それぞれのつながりを証明する力、いわゆるロジック・シンキング)、弁証学(相手を納得させる言葉や文章の使い方、いわゆるプレゼンテーション)、それにラテン語とギリシャ語、幾何学などでした。
筆者のこよなく愛する中国では、士大夫に必要なリベラル・アーツは四書五経、要するに孔子や孟子の言行録と、詩、史、易、書、礼の基本を学ぶことでした。

いずれも共通するのは、“特殊性”や“専門性”では決してなく、一般的に活用が可能なベーシックな知識であり考え方である、ということです。
しかし、現代日本ではそれに値する教育がどんどん廃れてきて、今では大学も専門学校もどこが違うのかと言いたくなるほどの職業訓練のオンパレードです。

では、こうした現代日本の状況の中で、皆さんが考えるべきリベラル・アーツとはどんなものかということになります。
一つの参考としてお薦めできるのが、立花隆が「東大生はバカになったか」という著作で書いている以下の文章です。長いですが、そのまま引用します。
「教養のミニマムと教養のマキシマムというものを考えたときに、教養のミニマムというものは基本的には常識といっていいだろうと思います。では、具体的にその常識の内容として何を考えるかということですが、僕が、“現代の常識”のレベルとしてよく例に出すのは、日経新聞を初めのページから最後の文化欄までをちゃんと理解できる、これが現代人が持つべき知識の基本ラインである、という表現です。」

という意味では、現代日本におけるリベラル・アーツは他ならぬ日本経済新聞であるのかもしれません。このリベラル・アーツをきちんと押さえているかどうかも、皆さんの能力を判断する際の重要な指標となるかもしれません。そして、皆さんが社会、とりわけ環境変化の激しい中小企業や小規模事業者の世界で活躍するには、最低限のリベラル・アーツをおさえておくことがとても重要になると思うのです。

F「よいとこどり」

このプロジェクトでは、皆さんへ中小企業や小規模事業者で働くことの魅力をお伝えするのも重要な目標となっています。そこで、今回はすべてを満たす会社は無い、あなたが何を望むのかによる、ということをお伝えしたいと思います。

矛盾の話はお聞きになっていると思います。
ある男が矛(ほこ)と盾(たて)を市場で売っていたそうです。
で、その男は矛を売る際には「どんな盾でも貫ける鋭い矛はいらんかね」。
盾を売る際には「どんな矛でも防いでしまう丈夫な盾はいらんかね」。
で、それを見ていた野次馬が「お前の矛でお前の盾を突いたらどうなるんだ」と言ったそうです。

話は飛びますが、アメリカという国は今二つの政治勢力に分裂し、それが固定化しつつあります。
そのとばっちりで、国の予算が決まらずに、お金が無いので政府機能が麻痺するとか、オバマ大統領が困りきっています。
その二つとは、「政府のサービスはそんなに要らないので税金を高くするな」という共和党と、「税金は多少高くてもよいので政府のサービスはきちんとしろ」という民主党です。
共和党のカラーが赤で、民主党のカラーが青ですが、ほとんどの州では色分けが固定化されていて、都市部の多い東海岸(ニューヨークとかボストンとか)や西海岸(ロサンゼルスやシアトルとか)は青、田舎の多い中西部と南部は赤、ごく少数の州が選挙のたびに揺れ動くスウィング・ステートと呼ばれて、選挙が勝つか負けるかがこのスウィング・ステートの結果次第という状況です。例えば、フロリダ、オハイオ、ペンシルバニア、ノースカロライナあたりの州です。

どうして中国の故事とアメリカの政治が結びつくかといいますと、それは「よいとこどり」はありえない、という原則を知っておいていただきたいからです。
すべての矛を防げる盾と、すべての盾を貫ける矛は両立しません。
高い政府のサービスと、低い税金は両立しません。
どちらかを選ぶしかない、ということなのです。

これは皆さんの今後の進路にも大きく関わってくる原則です。
入社しやすくて、給料も高くて、安定していて、出世しやすくて、仕事が楽な会社などはありえないのです。
「あれもこれも」はありえないのです。
ですので、自分が何を優先するのか、を決めていきませんと、入社してもすぐ退社する、という結果になる危険性があります。
そして、日本という社会では、よほどに腕が立たないかぎり、履歴書が汚れると、先の展開は望めないものです。
「履歴書が汚れる」というのも隠語に近いですが、やみくもに転職を繰り返した履歴書をキャリア・コンサルタントの業界ではそう言います。
要するに、まだまだ日本の社会における労働の流動性は高くなく、かつ転職の保証もされていないということなのです。
その意味では、入社3年以内に新入社員の3分の1が辞めるという現状は、大変肌寒いものがあると言えるでしょう。

ただし、腕が立つのであれば話は別です。
この場合は、腕の磨ける会社を選ぶ、という選択が魅力的になるでしょう。
会社はお金(賃金)をもらいながら通える道場のようなものでもあるからです。

そういう意味では、皆さんが会社をどういう観点から選ぶのか、これがとても大切では無いでしょうか。「よいとこどり」はできない、という原則をぜひご記憶いただきたいと思います。

F「アクノリッジメント(Acknowledgement)」

能力を構成する要素の一つにスキルがありますが、今回はたくさんあるスキルの中でも皆さんがすぐに直面する“コミュニケーション・スキル”のさわりをお話してみたいと思います。皆さんが中小企業や小規模事業者で働く際に、すぐにでも役立つスキルです。

昨年、とあるプロジェクトでなかなか職につけない若い人たちのキャリア・アドバイザーをしていました。
偶然、ジョブ・カード・キャリア・コンサルタントという資格を持っていまして、それ以外には運転免許も含めて何一つ資格の無い筆者の唯一の資格なんですが、そのおかげで回ってきた仕事でした。
そのキャリア・アドバイザーの仕事をしていてよく聞くのが、「コミュニケーションが取れないんです」という悩みです。
よく聞きますと、「コミュニケーション」ということを少し難しく受け止めているのではないか、そんな感じを受けています。
「コミュニケーション」とは、相手と意味や感情のやり取りをする、ただそれだけのことですので、やり取りをしたくない、と思わない限りはさほど面倒なことではありません。
でも、それを面倒なことだと思う若い人たちが多いと気づいていささか驚きました。

そこで、「コミュニケーション」の最初の一歩の話を差し上げたいと思います。
それが“アクノリッジメント(Acknowledgement)”です。
これはコーチングの世界でよく使われる言葉で、日本語では「承認」と訳すようです。
筆者は、「あなたの存在を私は認めていますよ」ということではないかと思います。

少し面倒な言い方をしますと、人間という生き物は社会的な存在ですから、必ず他人から認めてもらいたいという強い気持ちを持っています。
逆に他人に認めてもらえない状態が長く続きますと、その精神状態はバランスを欠くようになります。
要するに「シカト」されると気分が悪い、ということなんですね。

“アクノリッジメント(Acknowledgement)”はその逆です。
「あなたがそこにいることを私は認識していますよ、決して無視していませんよ」と、相手に伝えることです。
これがあると、相手は安心できます。
そこではじめて「コミュニケーション」に進めることになります。

F「経路依存症」

社会、とりわけ中小企業や小規模事業者で働く際に重要なものに能力があります。前回は能力を構成する要素の一つである“コンピテンシー(行動特性、行動の癖)”についてお話しいたしましたが、今回は「人間の能力」をその人の生い立ちから見てみたいと思います。そして、「人間の能力」を構成する要素の一つである“価値観”にも触れたいと思います。

“path dependency”という言葉があります。
日本語では経路依存症というようですが、要するに制度や仕組みが合理的な理由よりも過去の経緯によって拘束されていることを意味します。
よく例に出されるのがPCのQWERTY配列で、なんであんなキーボードになったのかと言いますと、機械式のタイプライターの頃にそうであったのが(ガチャンと字を打つバーが絡まないように)今でもそのままになっているので、特に合理的な理由はありません。
こういうように、過去にそうであったので、今もこうなっている、ということを意味します。

筆者がいつも思うのは、私たちの人生がいかにも経路依存症であるということです。
私たちの人生はその多くを過去に拘束されています。
私たちは親を選べませんが、その親から多くの影響を受けています。
また、小学校も中学校も自分で選ぶことは難しいですが、そうした学校から多くの影響を受けています。
例えば、何をしてよいとか、何をして悪いとかいう基準(価値観)は、多くの場合、親や学校から植えつけられたものです。NO.1に出てきた価値観のことです。
そして、そうした基準に沿って私たちは高校を選び、大学を選び、会社を選び、あるいは配偶者を選ぶことになります。
こうして選んだ(と自分では思っている)高校や大学、会社や配偶者によって、人生のほとんどは決まってしまいます。
まったくもって、過去の経緯によって拘束されている経路依存症が私たちの人生のようなものではないでしょうか。

しかし、仮にそれだけであるならば、私たちの人生というものはほとんど決められていることになります。本当にそうでしょうか。
筆者は必ずしもそうは思いません。経路依存症から抜け出して、新しい人生を歩むことは可能だと思うからです。
そして、私たちが経路依存症から抜け出すためには、過去からの経路を外れるための出会いが必要です。
しかし、そうした出会いは単なる偶然ではありません。
そうした出会いには必ずある種の準備が必要です。
「いつかは経路依存症から抜け出す」という意識のもとに、常日頃から出会いをイメージし、出会いへ向けた関係構築力の向上に努め、そして出会いの場を積極的に求めて行動する、こうした準備が必要なのです。

こうした出会いによる経路依存症からの脱出が無ければ、貧乏人の子は貧乏人、金持ちの子は金持ちのようなもので、まったくつまらない世の中になってしまいます。
ですので、世の中を楽しくできるかどうかも、実は私たちが経路依存症から脱出できるかどうかにかかっているのかもしれません。
皆さんも新たな出会いを求めて、今まで以上に意識して行動されてはいかがでしょうか。そして、出会いを通じて、自分の能力を少しでも高められたら素晴らしいとは思いませんか。社会に出る、そして中小企業や小規模事業者で働くという選択も重要な出会いとなるのです。

F「関係構築力」

皆さんが社会、とりわけ中小企業や小規模事業者で働く際に重要なことの一つは、皆さんの能力です。その能力を伸ばすためには自分自身をマネージメントしないといけない、というお話を前回差し上げました。
そうした人間の能力を構成する要素の一つに“コンピテンシー”というものがあります。
あまり馴染みの無い言葉でしょうから、少し具体的にお話してみたいと思います。

何度人に会っても覚えていただけない、と悩む人がいます。
これでは、せっかくの出会いも意味がありません。なにしろ、お会いしても覚えていただけないのでは、その人と関係を築くなどは夢のまた夢です。

どうしたら人に覚えていただけるか、そのコンピテンシー(行動特性、行動の癖)を“関係構築力”と言います。
関係構築力:特定の人と良好な関係を築くことができること。
特定の人と良好な関係を築くには、最低でもその人に覚えていただかないとはじまりません。

これがなかなか難しいのです。
どうしてか、と言いますと、人間には「よく思われたい」という気持ちがありますが、その気持ちは「悪く思われたくない」ということに他なりません。そうしますと、どうしても控え目に振舞いがちです。
これでは、いつまでたっても(偶然のチャンスでもないかぎり)、覚えてはもらえません。
特に相手に社会的地位があり、毎日たくさんの人に会っている人であればなおさらです。
ではどうしたらよいのでしょうか。これは意識して何かを行動しなければいけない、ということです。漠然と会っていたのでは、いつまでたっても同じことです。

例えば、野村證券の営業マンははじめてお会いしたお客さま(あるいはお客さま候補者)に、必ず巻紙、毛筆でお会いした御礼の手紙を出します。
毎日毎日、毛筆ですから時間もかかります。大変な営業です。
しかし、巻紙、毛筆で手紙をもらった人はどう思うでしょうか。これはまず忘れないでしょうね、その営業マンから株や投資信託を買うかどうかは別としても、まず忘れないでしょう。

これを笑い話だと思えばそれまでです。要するに、意識して行動する、という極端な、かつ明確な答えがこれです。

そこまでやったら、逆に嫌われるのでは、そう思う人も多いでしょう。でも、いつまでたっても覚えてもらえないよりは、多少は無理をしてでも覚えていただく方がましかもしれません。
すべての人に好かれることはありえないのですから、無理をして嫌われたら、それはあきらめるしかないでしょう。

ちなみに、筆者は「誘われたら必ず呑み会に顔を出す」ということを、若い頃から今までずっと守っています(よほどの二日酔いで無いかぎり)。単に酒好きだからという理由もありますが、要するに出会いの機会を一度でも逃したくないのです。

まあ、そこまで極端ではなく、関係構築力を改善したいと思う人にはこれがお薦めです。
お昼を食べるレストランでも、夜にお酒を呑む居酒屋でも、どこでもかまいません。
三回、そのお店を使ったら、お店の人に顔と名前を覚えていただけるように自分なりの工夫をしてみてください。覚えていただくように意識して行動するのです。これをやり続けると、間違いなく関係構築力は改善されます。

なお、コンピテンシー(行動特性)とは、こうした行動する癖のようなものです。癖ですので、意識すれば必ず身につきます。そういう癖を身につけると、少し自分が変われるかもしれませんね。
どうでしょうか、“コンピテンシー”に少しは近づいていただけたでしょうか。

F「関係のマネージメント」

前回までのビジネスの話で、「需要」と「供給」のことを学んでいただいたと思います。
皆さんが社会へ出るということは、皆さんが社会に自分自身を提供することでもあります。
その際に、皆さんは何を提供することができるのか、これがかなり重要です。特に中小企業や小規模事業者のように規模の小さな会社では、個人にかかるウェイトが大きいのでなおさらです。皆さんが会社に何を提供できるか、です。
そうした観点から、「人間の能力」について数回に分けて考えてみたいと思います。

若い人で、世の中から孤立して生きようとは思わない人、企業で働いて生きようと思う人、自分が経営者になろうと思う人であれば、ピーター・ドラッカーという経営学者(というよりは現代社会における知の巨人)の著作を一冊は読むのがよいと思います。
ピーター・ドラッカーの言ったことは、筆者もこれからたくさん引用させていただくことになるでしょう。

ピーター・ドラッカーは「マネージメント」という概念の発明者だとよく言われます。
マネージメント、いささか厳密に説明をしますと、組織に成果をあげさせるための仕組みや方法であり、組織が成果をあげることで社会が発展し、結果して社会を構成する私たち一人ひとりの幸福につながる、そうした全体としてのプラスの流れを生み出す重要な要素のことを言います。
まあ、そこまで面倒に言わないとすれば、自分の属している組織をうまく動かし、よい成果に結びつけることだと思えば、皆さんにもその重要性がわかると思います。
このマネージメントができていない組織は、すぐにギクシャクし、あるいは手戻りし、多くの失敗を重ね、その組織に属している人間も幸せにはなれないでしょう。

こうしたマネージメントを私たち自身の生き方に置き換えてみると、それがうまくできていれば私たちもプラスに流れる可能性が生まれ、それがうまくできていないとマイナスに流れてしまう危険性が出てきます。
では、私たちは何に注意して自分自身をマネージメントすればよいのでしょうか。

ピーター・ドラッカーは、「仕事」「知識」「関係」「時間」の四つを重要な要素だと位置づけています。その中で今回は「関係のマネージメント」に絞ってお話したいと思いますが、要するに「朱に交われば赤くなる」ということです。別の言い方をすれば「よき友、よき師を選ぶ」ということです。
誰と関係を作ればよいのか、それをよく考えて生きないと、自分自身のプラスになる対人環境は手に入りません。
でも、自分の周りによい人がいなければどうしたら、と言われそうですが、どんな人にも出会いは必ず訪れます。むしろ、問題は出会いを見逃してしまう自分自身にあるかもしれません。ですので、必ず訪れる出会いへ向けて、そのチャンスを見逃さないように、準備を怠らないことです。
そうした準備の一つに、「ピーター・ドラッカーの著作を読む」という行為も入ると考えていただければと思います。あるいは、歴史上で尊敬できる人物を見つける、あるいはそうした人物にあこがれる、という行為も入ると考えていただければと思います。
どういう人と関係を作ればいいのか、そのイメージができていなければ、せっかくの出会いも見逃してしまうかもしれません。

次回は、関係したい人のイメージはできた、でもどうしたら出会いを関係に活かせるのかわからない、という人のための糸口についてお話したいと思います。

C「商人」

今回は、ビジネスを“字”の世界から見てみたいと思います。中小企業や小規模事業者でビジネスを考える上でのヒントがあるかもしれません。

商売をする人を「商人」と言います。それは何故でしょうか?
漢字は表意文字です。従って、漢字で表された言葉にはすべて何かしらの意味があると考えてよいでしょう。
では、「商人」とは何でしょうか?
人は人ですので、特段説明する必要もありません。
となると、問題は「商」ということになります。

この話をするには、時代を4,000年ほど遡らないといけません。
中国で漢字が生まれた時代です。
今から2,200年ほど前、「史記」という歴史書が司馬遷によってまとめられました。
この「史記」の中では、夏~殷~周~春秋戦国~秦~漢という王朝の変遷が記録されています。
考古学があまり発達していなかった時代には夏~殷の二つの王朝は実在が疑われていました。しかし、中国の河南省安陽で殷の都跡が発掘され、そこで出土した甲骨文字(亀の甲羅や牛の肩甲骨に刻まれた文字)から、「史記」に書かれている殷王朝の歴代の王が実在したことが明らかになりました。
ちょっとした間違いはありましたが(父子が兄弟であったり、父子が伯父甥であったり)、三十代にもおよぶ歴代の王が甲骨文字で表されていたのです。
これはこれで面白い話ですが、本題からそれましたので「商」の話に戻しましょう。

この殷という王朝の人たちが自分たちのことを「商」と呼んでいたのが、商人という言葉のはじまりです。
それは、殷という王朝ではじめて農産物や青銅器がたくさん作られるようになったからです。そして、「商」の人たちはそうした農産物や青銅器を他のところへ持っていって、別のものと交換する、という活動がはじまりました。
自分たちが作ったものをそれが乏しい別の場所で売って利益を稼ぐ、あるいはある場所で余っているものと交換し、それを別の場所で売って利益を稼ぐ、当時としては革命的な話であったと思いますが、そういうことを殷王朝の人たち(商の人たち)がはじめた訳です。ものが無くて困っている人たちへものを届ける、まさに商売の原点がそこにあります。
そして、こうしたある場所から別の場所へものを動かして利益を稼ぐ人たちを「商の人のようだ」~「商人のようだ」~「商人」と変わっていったのでしょう。

ちなみに、殷という王朝で農産物がたくさん採れた証拠は「酒」にあります。
「酒」は農産物からしか造れません。
農産物が食べるためだけに消費されていては、「酒」は造れないのです。
毎年毎年かどうかは別としても、ある年に食べきれないほどの農産物が採れたことの証が「酒」と言うこともできるでしょう。
そして、殷という王朝は呑んで呑んで呑んでいた王朝であったことがわかっています。なにせ、出土する青銅器の多くは「酒」を呑む器なのですから。
なんで呑んだのか、そのお話は殷の神によりますので、またの機会といたしましょう。

しかし、「呑む」ことができたのは、それだけの農産物を採ることができたということです。食べる以上の農産物を採ることができたので、「需要」と並んでビジネスにおける大切な要素である「供給」というものを、4,000年も前、殷の人たちは可能にしていたのです。どんなに困っている人がいたとしても、それに提供できるものがなければ、ビジネスは成立しません。「需要」と「供給」はビジネスの両輪なのです。
そういう意味で皆さんが提供できるものは何なのか、ぜひこの機会に考えてみてください。皆さんも会社に何かを提供し、会社から何かを提供してもらうことになるのです。会社も社会に何かを提供し、社会から何かを(多くはお金を)提供してもらうことになるのです。

C「“うさぎの里”に見られるビジネスのヒント」

第1話では、ビジネスにおける“価値観”のお話を差し上げました。
今回は、ビジネスを需要と供給という観点から見てみたいと思います。

ゴールデンウィーク前半は、加賀大聖寺から信州上田へと小旅行でした。
どういう目的だったのかは、いずれご紹介することもあるでしょう。

さて、昭和40年代からバブルの昭和60年代まで、日本中の観光施設が巨大化し、ある種の装置産業となったことは皆さんもよく目にしていることだと思います。
どの温泉地に行っても目にする馬鹿でかいホテル(それも時々は廃墟と化していますが)、どの観光地に行っても目にする大規模なテーマパークやドライブイン、ああいった巨大施設の末路は皆さんもよくご承知でしょう。
典型的な過剰装置で、全国いたるところに不良債権と倒産をまき散らかしたものです。

今回の旅で訪れた北陸もそうした観光施設の多い地域です。
その中で、一つ驚いたことがありました。
五六年ほど前に訪れたドライブインが一変していたのです。
かつては、輪島や山中の漆器、九谷焼といった定番の高額お土産品がところ狭しと置いてある、ちょっと悪口で言えば、どこの観光地にもあるような、暗くてはやらないドライブインでした。
少なくとも筆者がああいった観光施設でお土産品を買うことは無いでしょう。

ところがところが、今回訪れて見ると人また人、人の山です。
もちろん、ゴールデンウィークで行楽日和ということもあるでしょうが、とにかくイメージが一新されていました。
なんと、輪島や山中の漆器、九谷焼などの高額お土産品は店の奥に追いやられ、あらゆるところにうさぎ、うさぎ、うさぎです。
生きているうさぎもいれば、置物のうさぎ、お土産のうさぎ、ぬいぐるみのうさぎ、どこにでもうさぎ、うさぎ、うさぎです。
これには驚きました。

で、うさぎに群がる子どもたち、親御さん、若いカップル、お孫さんとおじいさんおばあさん、まさに人の群れとうさぎの群れです。

どうやら経営者が世代替わりをしたらしいのですが、おもわず「なるほど」と思いました。
かつての栄光の日々、高額お土産品が飛ぶように売れていたバブルの時代をきっぱりとあきらめ、遊ぶところに不自由している子ども連れに狙いを変える、しかも、設備投資がほとんどいらない「うさぎ」に目をつける、実に素晴らしいではないですか。
筆者は、商売の原点は「困っている人をみつける」ことだと考えています。
困っている人が困らないようにする、これが商売の普遍性では無いかと思うのです。
逆に考えていただければわかりやすいと思うのですが、満腹の人に食べ物は売れませんし、健康な人に医者は要りません。
ですので、食べ物商売は空腹時(めしどき)が勝負ですし、医者には病人が欠かせません。
その意味で言えば、このドライブインの経営者は間違いなく「困っている人をみつけた」のです。
子どもが喜んで、あまりお金のかからない観光施設に困っている親御さんやおじいさんおばあさんを、です。

こうした「困っている人をみつける」ことが、ビジネスにおける需要を意味していると筆者は考えています。
皆さんもご自分の周りを見回してください、困っている人はいませんか。
筆者の目には、やる気のある若者を求める地域の中小企業や小規模事業者の経営者の姿がかなり鮮明に見えますが、いかがでしょうか。

C「ビジネスとは~はじめに~」

このコラムは、「地域中小企業の人材確保・定着支援事業」の一環としてお届けするものです。
この事業は、中小企業や小規模事業者が地域で学んだ大学生などを地域において円滑に採用でき、かつ定着させるための自立的な仕組みを整備することを目的としています。そして、そうした若手人材を継続的に確保し、中核人材として育成することで、中小企業や小規模事業者の経営力強化を進めようとしています。
このため、このコラムでは①これから社会に参加する若者の皆さんに「働く」、あるいは「ビジネス」ということがどういったものなのかを知っていただく、②中小企業や小規模事業者で働くために重要な知識やスキル、あるいは“社会人基礎力”や一般常識を身につけていただく、③中小企業や小規模事業者の海外進出や市場開拓において必要とされるさまざまな国や地域の情報や文化風土などの基盤的な知見を知っていただく、そうしたことを大きな狙いとしています。
時には幅広い知見をご紹介するために、少々間口を拡げることもあるでしょうが、それもこれからの日本を背負う皆さんに求められる一種のリベラル・アーツだとご理解をいただければ幸いです。また、このコラムを書くに際して、日本経済新聞とウィキペディア(Wikipedia、ウィキメディア財団が運営しているインターネット百科事典)から多くの情報を得ていることをあらかじめお伝えいたします。
それでは、第1話として「ビジネス」の話からはじめることとしましょう。

筆者はビジネスをはじめる際に、ある種の基準を持っています。
それは次の三つの尺度です。
①ビジネスで利益が上がること
②ビジネスによって、お客さまにプラスを与えられること
③ビジネスを通じて、ビジネスに関わったスタッフ、あるいはスタッフが所属する組織が成長できること
こうした尺度を“価値観”と言います。
価値観とは何か、という話はおいおいお話しましょう。
今は、こうした基準とか尺度とかが価値観なのだ、とお考えください。

大企業であれ中小企業であれ、あらゆる企業には必ずこうした価値観があります。
言い換えれば、その企業の精神風土のようなものでしょうし、企業文化と言えるかもしれません。
例えば、リクルートの価値観は以下のセンテンスで表現できるでしょう。
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
このリクルートのセンテンスのように、明確で過不足なく、誰にでも理解できる(再現できる)価値観を持っている企業を“ビジョナリー・カンパニー”と言います。
もともとはジェームズ・C・コリンズとジェリー・I・ポラスが、『ビジョナリー・カンパニー』(日経BP出版センター)で紹介したものです。
現代アメリカで成功を収めた企業にはある種の共通したポイントがあり、それはこうした価値観を明確に現わし、かつそれを実現できた企業である、ということのようです。

皆さんの多くは、これから企業へ勤めることで社会へ出て行きます。
サルトル流に言えば、アンガージュマン(社会参加、engagement)の第一歩を踏み出すことになります。
その際、極めて重要なことが、どの企業を選ぶのか、あるいはどの企業に選ばれるのか、です。

現代はインターネットの世界です。
必要な情報は基本的にインターネットの中にあります。
そして、ほとんどの企業は何かしらの情報をインターネット上に出しています。
こうした情報をリサーチすることは当然重要ですが、同時に初任給とか、役員の出身校とか、当期利益とか(これはまだましな情報ですが)、そういった情報だけではなく、その企業の価値観につながるような情報を探してみてはいかがでしょうか。
なんと言っても、かなりの人生をともに過ごす相手です。
その相手が洋食好きなのか、和食好きなのか、濃口醤油か薄口醤油か、くらいは調べておきませんと、成田離婚につながりかねません。新卒就職者の3人に1人は入社3年以内に退社している時代ですのでどうかご注意ください。

<筆者の紹介とこのメール配信のルール>
① 筆者は福島県の会津若松市に住んでいます。
② まもなく60歳になる初老の男性です。
③ 25歳のときからいろいろな職場を渡り歩いてきましたが、信州大学繊維学部特任教授の岡田基幸さんとは、産学連携の業界にいた頃の知り合いです。
④ メール配信のルールは簡単で、個別の問い合わせや質問は歓迎しますが、フルネームで<yoshida@nojuan.com>までお願いしたいと思います。さほど時間をおかずにご回答差し上げますが、わかること、できることと、わからないこと、できないことがありますので、お許しください。