F「リベラル・アーツ」

Category: シュウカツ俯瞰
第2話で「商売の原点は困っている人をみつけること」という話をしました。
こういう原則を“普遍性”と言います。
要するに、特定の環境で通じるルールではなく、一般的な環境で共有されても大丈夫なルールということです。
これがベースにあって、その上に“特殊性”や“専門性”が乗っかっている、と考えてもよいと思います。

第6話で出会いの持つ重要性と、出会いのための準備の話をしました。
経路依存症から抜け出すためにはどうしたらよいのか、ということでもあります。
もちろん、お金持ちの家に生まれ、素晴らしいご両親に恵まれ、ここまで何一つ問題も無く今日を迎え、かつ前途も保証されている本当に銀のさじをくわえて生まれてきたような方は(Born with a silver spoon in one's mouth)、その経路依存症を大切にすることです。
しかし、ほとんど多くの普通の人はそうではないでしょう。

筆者は、そのための重要な鍵はリベラル・アーツであろうと思っています。人間の能力を構成する要素で言えば「知識」ということになります。
ここがきちんとできていれば、たいがいのことには対応できるのではないかと思うのです。
いわば、教育における“普遍性”のようなものです。
ただし、この“普遍性”も時代の変遷によって変化はしています。
筆者の尊敬するジュリアス・シーザー(ユリウス・カエサル)を生んだ古代ローマ帝国では、貴族に必須なリベラル・アーツは、論理学(ものごとのつながりを明確にし、それぞれのつながりを証明する力、いわゆるロジック・シンキング)、弁証学(相手を納得させる言葉や文章の使い方、いわゆるプレゼンテーション)、それにラテン語とギリシャ語、幾何学などでした。
筆者のこよなく愛する中国では、士大夫に必要なリベラル・アーツは四書五経、要するに孔子や孟子の言行録と、詩、史、易、書、礼の基本を学ぶことでした。

いずれも共通するのは、“特殊性”や“専門性”では決してなく、一般的に活用が可能なベーシックな知識であり考え方である、ということです。
しかし、現代日本ではそれに値する教育がどんどん廃れてきて、今では大学も専門学校もどこが違うのかと言いたくなるほどの職業訓練のオンパレードです。

では、こうした現代日本の状況の中で、皆さんが考えるべきリベラル・アーツとはどんなものかということになります。
一つの参考としてお薦めできるのが、立花隆が「東大生はバカになったか」という著作で書いている以下の文章です。長いですが、そのまま引用します。
「教養のミニマムと教養のマキシマムというものを考えたときに、教養のミニマムというものは基本的には常識といっていいだろうと思います。では、具体的にその常識の内容として何を考えるかということですが、僕が、“現代の常識”のレベルとしてよく例に出すのは、日経新聞を初めのページから最後の文化欄までをちゃんと理解できる、これが現代人が持つべき知識の基本ラインである、という表現です。」

という意味では、現代日本におけるリベラル・アーツは他ならぬ日本経済新聞であるのかもしれません。このリベラル・アーツをきちんと押さえているかどうかも、皆さんの能力を判断する際の重要な指標となるかもしれません。そして、皆さんが社会、とりわけ環境変化の激しい中小企業や小規模事業者の世界で活躍するには、最低限のリベラル・アーツをおさえておくことがとても重要になると思うのです。