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C「経営者を知る④~結果責任~」

経営者が行うべきことの最後が「結果責任」です。
既に「経営判断」でお伝えしたとおり、会社の経営判断は経営者に帰属します。経営者はどんなに辛くても経営を判断し、意思を決定しなければいけません。そこから逃れる方法は、唯一経営者を辞めることしかありません。
しかし、どんな経営判断にも必ず結果があります。結果は必ずしもよいことばかりではありません。悪い結果が生じることも避けられないことです。
こうした場合、経営者が取るべき道はただ一つ、「結果責任」を取ることです。
関係者へ謝罪する、減給する、再挑戦する、その現わし方はさまざまでしょうが、いずれにしても結果に頬被りすることだけは避けなければなりません。
それは、組織の運営には“信賞必罰”が原則であり、この原則から経営者といえども逃れることはできないからです。要するに例外規定や特別扱いはいけない、ということでもあります。

“信賞必罰”、この語源は韓非子(中国の戦国時代の思想家)に遡ります。韓非子はこう言います。「君主は臣下を御するために二つの柄を持っている。一つは刑罰を与えることであり、一つは褒賞を与えることである。斉の田氏は王に代わって褒賞の権限を得て国を乗っ取り、宋の大臣は王に代わって刑罰の権限を得て王を脅かした。たとえ一つの権限を手放しただけでも王はその地位を失う。臣下が与えた任務を果せばこれを賞し、果たせなければこれを罰する。」というようなことです。
しかし、実際は“信賞必罰”がきちんと行われる会社は少ないものです。
特に、賞を与えるのは会社に利益が出ていればそう難しいことではないのですが、罰するのはなかなかできません。
人間には(経営者にも)親和動機がありますので、相手をそこまで追い詰めるのには躊躇しがちなのです。もちろん、社会的、法律的に駄目な場合は別ですが、そうではなく会社の利益を損ねた、会社の規範に反した、会社の指示に従わなかった、こうした場合にきちんと罰することができるかどうか、これが問われることになります。
もちろん、罰するには順序がありますので、教える⇒指示する⇒諭す⇒叱る⇒罰する、というようなプロセスも必要になりますし、罰したあとには再挑戦の機会も与えることも重要です。

また、賞したり、罰したりする前提として、一人ひとりの従業員の成果を把握しているのか、という問題もあります。
成果が可視化されていなければ、そもそも評価をすること自体が難しいですし、評価への信憑性も問われることになります。「あいつは言うことを聞かないから罰する」のでは、たまったものではありません。それこそ、経営者の求心力は失われてしまいます。

いずれにせよ、従業員を甘やかす会社に未来はありません。優しく接するのと、甘やかすのとはまるで別のことです。甘やかすことはしまりがないこと、だらしないことと何ら変わりません。
このように、皆さんが会社を選択する際には、その会社が成果を評価するのかどうか、成果に基づいて信賞必罰がなされるのかどうか、経営者にも結果責任は及ぶのかどうか、こうした観点でも観察をされると、その会社の企業風土と言いますか、体質と言いますか、文化と言いますか、そういうものが見えてくるのではないでしょうか。
また、そうした企業風土とか体質とか文化とかは、皆さんがその会社とともに人生を歩めるかどうかを決めるかなり大きな要素になると、筆者は考えています。

C「経営者を知る③~経営判断~」

「経営者が行わなければならないこと」、そして「経営者が行ってはいけないこと」をご紹介してきましたが、これは皆さんがこれから社会に出て、会社で働こうとする際に、とりわけ組織の小さい中小企業や小規模事業者で働こうとする際に、その会社の特性や実力を判断する一つの指標になると思うからです。
これまで「説明責任」、そして「聞く耳を持つ」についてお話を差し上げましたし、「批判を受容する」もその延長線上にある内容です。
しかし、こうしたお話は経営者にもっとも求められる「経営判断」のための前座のようなものです。

経営者の存在意義は、「経営判断、あるいは意思決定(Decision Making)」をすることにあります。ついで、その判断や意思を執行することにあります。「説明責任」も「聞く耳」も、今後お話しする「結果責任」や「システム化」も、すべては経営判断のためのツールであり、前提条件であり、周辺環境に過ぎません。
ですから、たとえ説明責任を果さず、聞く耳も持たず、結果責任も取らず、システム化をしなくても、経営判断が正しければその経営者は有能なのです。ただし、その場合、正しく経営判断を続けられる確率はかなり低いものにはなるでしょう。

では、「経営判断、あるいは意思決定」とはどんなものでしょうか。
それは、特定の目標を達成するために、ある状況において複数の代替案から、最善の案を選択することです。そのためには、合理的な選択が求められ、そうした合理的な選択を行うプロセスとして、正しい目標の認識や必要な情報の収集、目標達成のための方策の考案と比較、最善の方策の選択と実行計画の立案、計画の実施の監督などが包括されます。
会社経営においては、売上や利益の確保、提供する商品やサービスの確立、人員の確保と管理、組織の構築と運営、資金の調達と運用や返済など、実に多様な経営判断が日常的に求められることになります。
その意味においては、経営者は日常的に極度の緊張状態に置かれるとも言えます。
そして、経営者は経営判断に至るまでのプロセスは他者へ委ねたとしても、経営判断そのものを他者へ委ねることはできません。自分の責任として、また権限として、常に経営判断を続けるしかありません。
まさに、経営者は会社のリーダーであり、ボスであり、孤独なものなのです。

韓非子によるまでもなく、経営判断を他者へ委ねれば、そのときから経営者は会社の求心力を失います。
求心力はものを決める人にしか集まらないものなのです。
ですから、経営者はどんなに辛くても経営判断を手放すことはできないのです。

こうして見ますと、経営者はまさに会社の未来を握っていると言えます。
会社の未来のための経営判断を自分一人で行うからです。
その意味では、皆さんが会社を選択する際の重要な指標になるのが、その会社の経営者はどういう人か、ということになるでしょう。
とりわけ、組織の規模の小さい中小企業や小規模事業者の場合、経営者は経営判断のためのプロセスを他者へ委ねることも難しいので、経営者=会社というような状況にあるでしょう。
この場合は、経営者の力量とこれからの成長が会社の成長に直結します。経営者が経営者として成長すればするほど、その会社も成長し、経営者が成長しなければ、会社も成長しないという相関関係が成立するようです。
この辺の見極めをすることは皆さんにとって重要ですし、中小企業や小規模事業者の場合は経営者を直接知ることもそんなに難しくないでしょうから、ぜひ気後れすることなく、経営者にアタックされることです。

しかし、そうして会社が順調に成長しますと、経営者が会社のすべてを見渡すことが難しくなります。規模の限界が生まれてくるのです。これまでは従業員の顔も名前も能力も性格も掌(たなごころ)に指すようにわかっていたものが、だんだんとわからない従業員が増えてくる。現場での作業も誰よりも経営者が把握していたのが、現場から遠ざかる時間が増えて、作業も見えなくなる。こうした状況が生まれてきたら、そろそろ考えなければならないのが経営判断の「システム化」です。
これまで経営者の頭の中にしかなかった経営判断のプロセスや基準、ルールなどを言語化し、暗黙知(経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもの)を形式知(文章化・図表化・数式化などによって説明・表現できるもの)へ置き換えて組織の中で共有し、経営判断に至るまでのプロセスの一部を組織に委ねる、これが経営判断の「システム化」です。
このように、会社の成長は、当初は経営者個人の力量と成長によって進められ、それがあるレベルにまで達すると経営判断を「システム化」することにより次の成長のステージへと進む、しかし、そのいずれにおいても経営判断は経営者のみに帰属する、とお考えいただいてよろしいと思います。
なお、この辺の「システム化」をより詳しく探ろうとされるのであれば、野中郁次郎さんによるナレッジマネージメントに関する著作、例えば「知識創造企業」あたりをお読みになることをお薦めします。

F「切所(せっしょ)」

ものごとには切所(せっしょ)が必ずあります。切所、勝負どころ、正念場、踏ん張りどころ、呼び方はさまざまですが、同じことです。
「ここを乗り切らないと」「ここを切り抜けないと」、そういうポイントです。
皆さんもこれから社会に出れば、間違いなくそうした切所にぶつかるはずです。

例えば、山登りをする人ならば経験があるはずですが、山を登ると、疲れてきた頃に険しい場所がやってきます。
登りはじめて二三時間たって、だんだんと足が痛くなる頃に、見上げるような急な登り坂、切り立った崖、両側が断崖の細い尾根、そういった場所にぶつかります。
これを頑張って登り切ると、見晴らしのよい尾根に出たり、お花畑が迎えてくれたり、ほっと一息がつけます。

例えば、プロ野球のピッチャー、味方が先取点を取ってくれて、すいすいと投げてきたが、四回に味方はノーアウト三塁のチャンスを作ったのに点が取れない。
次の五回、ここを投げ切れば勝利投手の権利が取れる。
ところが先頭打者をゴロに打ち取ったのに野手がエラーしてノーアウト二塁、点差は一点、こういった場面が切所、ここを乗り切らないと勝ち投手にはなれません。

こういったポイントは、仕事にも職場にも会社にもあります。
この切所を乗り切れば、自信も実力もついてきますし、乗り切ったあとには、明るい未来が待っています。
しかし、乗り切れなければ「負け犬」、未来は明るくなりません。
そして、切所は必ず辛い、何故ならば自分の能力をフルパワー、あるいはそれ以上に発揮しないと乗り切れないからです。

一般的に、成長できない人、成長できない職場、成長できない会社は、こうした切所を乗り切れない人、職場、会社です。
どんなに苦しくとも、どんなに辛くとも、この切所を乗り切らないといけません。
何度も諦めようと思います。何度も止めようと思います。何度も逃げ出そうと思います。しかし、諦めたら、止めたら、逃げたら、もう明るい未来はやってきません。

切所では負けるときもあります。いつも勝てる訳ではありません。しかし、自分の能力をフルパワーに発揮して、結果して武運つたなく負けたとしても、フルパワーを発揮すれば、それは必ず成長につながります。

言い換えれば、切所では能力をフルパワーに発揮しないといけませんから、必ず能力に伸びしろが生まれます。この伸びしろが成長の源になります。
逆に言えば、能力をフルパワーに発揮しない人は、伸びしろが生まれませんから、能力はそのままでむしろ退化する危険性すらあるでしょう。

筆者の経験で困るのは、自分の能力をフルパワーで発揮しないタイプです。
この手のタイプは、切所でいつの間にか逃げ出していなくなります。
これは困ります。
人間が一番信頼するのは、負け戦でも逃げずに隣で戦ってくれるタイプです。
負け戦になったら、いつの間にか逃げ出して、いなくなるタイプをどうやって信頼できるでしょうか。

また、切所がわからないタイプも困ります。
周りが見えていないから、どこでフルパワーを発揮したらよいかわからない。
どうでもよいところでフルパワーを発揮したり、肝心なところで手を抜いたり、まことに困ります。
車の運転でもそうだと思いますが、いつもトップギアで走っていたら車は潰れてしまうでしょう。市街地の細い道路を全速力で走ったら周りの迷惑。逆に高速道路を時速30㎞で走ったらこれも周りの迷惑です。

では、どういった状況が切所なのでしょうか。
具体的には、他人から認めてもらわないと、ものごとがうまく進まない、そう感じるとき、それが切所です。
職場をうまく回さなければならないのに、部下や同僚が自分の指示を聞いてくれない、これも切所です。
これまでは話を親身に聞いてくれた上司が、なんとなく冷たい素振りをする、これも切所です。
皆さんもそうした切所では出し惜しみをしないで、フルパワーで頑張ってください。

F「批判を受容する」

私たちの社会にはいろいろな人が生きています。皆さんもこれから社会に出れば、驚くほどさまざまな人に会うことになります。
人には人それぞれの価値観がありますから、ある人には善いことも、ある人には悪いことになる、そういった価値観のズレは必ず発生します。
また、人は感情的な生き物ですから、他者への感情は安定しにくく、ちょっとしたきっかけで、善くも悪くもなります。
こういった価値観のズレや感情のもつれは、他者に対する批判につながります。
従って、私たちは生きているかぎり、他者からの批判に必ず曝されることになります。

が、問題はここからで、そうした批判にどう対応すべきか、なのです。
これは特に人の上に立つ人にとっては、とても大切なことです。
何故ならば、批判とどう向き合うかで、その人の伸びしろは大きく変わってくるからです。

例えば、批判に反発する、あるいは批判に反論して言い負かす、そういう反応もあります。人の上に立つ人は、大概の場合は能力が高いので、批判に反論することは容易で、多くの場合は言い負かすことができます。「まったく生意気だ、私を批判するなんて百年早い」という訳です。

その反対に、なんでもかんでも批判を受け入れ、とにかく波風を立てないように、無難に毎日を過ごそう、そういう反応もあります。
まあ、人の上に立つ人は、あまりそうはしませんが、「よくはわからないが、頭を下げておけば収まるし、そのうちほとぼりも醒めるだろう」という訳です。

これはどちらも伸びしろが無い、筆者はそう思います。
「クレームは品質改善のきっかけだ」、よく言われることです。
「失敗から学ぶことが大切だ」、これもよく言われることです。
批判もまったく同じで、批判があればこそ、自分の足らないことをなおせるのです。
特に下のものが上のものを批判するのは、なかなか勇気の要ることですから、普通は人の上に立つ人は、批判を受ける機会が少ないものです。
そこで、批判に反発する、あるいは批判に反論して言い負かしてしまえば、後は誰も批判したくなくなります。
そうなると、都合のよい話しか入って来なくなる、「王様の耳はロバの耳」という現象が訪れます。
これは、人の上に立つ人にとっては、最終局面で、終わりのはじまりです。

そうかといって、批判が日常的になっているならば、これは確実に下のものが上のものを尊重していない証拠です。
数ある批判の多くは価値観のズレや感情のもつれからくるものですから、批判が生まれた土壌には注意が必要ですが、批判を鵜呑みにして、すぐ行動を変えたら、必ず別の角度からの批判に曝され、収拾がつかなくなる恐れがあります。
批判を受容することと、批判を鵜呑みにすることはまるで違いますので、批判の本質を見分けることが大切です。

筆者がお薦めするのは、まずは批判には耳を傾けること、そして批判にはすぐには反応しないこと、批判が生まれた原因をよくよく考えて、「なるほど」と思ったらはじめて行動を変えること、これですね。
最低でも、よくよく考える時間は一日以上あった方がよいでしょう。
何故ならば人は感情的な生き物で、誰でも批判されれば頭に血がのぼってしまい、それが醒めるまで時間がかかるからです。

C「経営者を知る②~聞く耳を持つ~」

中国の歴代王朝には“諫議大夫”という役職があったそうです。
王朝は皇帝という絶対的な権力者が君臨する政治体制です。皇帝は誰からも制御されません。
しかし、そうは言っても皇帝も人の子です。時には過ちを犯すこともあります。
そうした場合、皇帝を諌めるという厄介な役職がこの“諫議大夫”です。
ですから、この役職についたときは家族と別れの宴を開いたという話も伝わっています。真面目に勤めを果たせば果たすほど、皇帝に耳の痛いことを言わなければならず、いつ殺されるかわからないからです。諌めたときに皇帝の虫の居所が悪ければ、即刻打ち首です。
貞観政要(じょうがんせいよう)という政治上のバイブルを取り纏めた唐王朝の太宗という名君でさえ、“諫議大夫”を勤めた魏徴(ぎちょう)という忠臣を死後に罰したほどです。生前はよほど耳の痛いことを聞かされ続けたのでしょう。

さて、経営者はその会社のトップです。上場企業であれば別ですが、普通の会社ではオーナー(株式を高い割合で保有する経営者)であるケースがほとんどです。
こうなりますと、その会社では経営者=皇帝のようなものです。誰も経営者を制御できません。
こうした絶対的な権力者=経営者には、耳の痛い話は入ってきません。多くの場合、経営者に入ってくる話は経営者に都合のよい話ばかりになります。いわゆる甘言、巧言ばかりが情報になりがちです。
特にその会社の意思決定の仕組みがルール化も透明化もされないで、経営者一人のブラックボックスになっている場合は、経営者の喜びそうな話や経営者が望んでいるような話を先回りする人間が増えるものです。「こう言ったら経営者は喜ぶだろう」「こういう結論を経営者は望んでいるだろう」、そうした観測でものを言う社員が増殖することになります。

これは大変困ったことで、会社は希望的観測に満たされ、どこにも実態を示す情報は存在しない、ちょうど海図やレーダー無しで真夜中に航行するようなものです。

従って、経営者は自分の存在が周りから隔絶していればいるほど、「聞く耳を持つ」ように努めなければならないのです。
特に会社が成長段階に入り、その規模が徐々に大きくなり、経営者がすべてを見渡すことができなくなると、より強く「聞く耳を持つ」ように努めなければなりません。それは、以前とは異なり、経営者がすべての現場で起こっているすべての事象を把握することができなくなるからです。
これが、成長に伴う会社のシステム化の端緒と言えるでしょう。このシステム化のお話はこの先に差し上げる予定です。

それでは、どうしたら「聞く耳を持つ」ことができるのでしょうか。
そのためには、何よりも耳の痛い話でも経営者に届くように会社の風通しをよくする必要があります。
具体的には、甘言や巧言を喜ばない、これにつきます。
経営者におもねる社員を甘やかさず、野放しにしない、これがきちんとできていれば、自ずと実態が伝わってくるものです。
少し意味は違いますが、GE(ゼネラル・エレクトリック)で20年間にわたりCEOを勤め、20世紀の突出した経営者と言えるジャック・ウェルチの名言から一つお伝えしましょう。
「4つのタイプのマネージャーがいる。
価値観が一致し成果を上げるものは厚遇する。
価値観が合わず成果も出せないなら首だ。
価値観は合うが成果に結びつかないなら、他の機会を与える。
難しいのは4番目のタイプのマネージャーだ。
裏工作をして成果を出すマネージャーだ。
これを排除できないでいると、価値観が壊れ、公平性が失われる。
排除せねばならない。」

人間はどうしても耳障りのよい話を喜びます。自分を誉めてくれる、自分を持ち上げてくれる、自分を尊重してくれる、そうした話をする人を近づけるものです。
しかし、経営者はそうであってはいけないのです。
経営者の多くは権力動機が周りよりも強いものです。
ですので、そもそも他人の言うことを聞きたがりません。
しかし、ここで考えなければならないのは、経営者として成長するには権力動機も成長させなければならない、ということです。
「他人をよりよく導く」、権力動機をそうした方向へ伸ばし、経営者がリーダーとして成長するには、何よりも甘言や巧言を排し、たとえ耳が痛くとも「聞く耳を持つ」、ここからはじまることが多いと言えるでしょう。
ただし、「聞く耳を持つ」と「他人の判断に委ねる」とは意味が違うことをご記憶ください。

C「経営者を知る①~説明責任~」

このコラムの読者の方から、「経営者に必要とされるコア・コンピテンシーはどんなものでしょうか」という質問をいただきました。
確かにウェイターやウェイトレスに必要なコア・コンピテンシーは「顧客指向性」「徹底確認力」「チームワーク」の三つだ、そう申し上げました。
あらゆる職業や仕事には欠かせないコア・コンピテンシーがあります、とも申し上げました。
従って、筆者にはこの読者の質問に答える義務があります。
しかし、これは難問なのです。
というのは、ウェイターやウェイトレスは登山道が限られている単独峰のようなものですから、「この登山道が最適だ」と言い切れるのですが、経営者は登山道がたくさんあり、しかも頂上もいくつも連なっている山並みのようなものなので、「この登山道も、この登山道も」といった言い方になってしまいます。

しかし、それでは回答になっていないので、このシリーズでは角度を変えて、「経営者が行わなければならないこと」、そして「経営者が行ってはいけないこと」をいくつか紹介して、コア・コンピテンシーを考えるヒントにしたいと思います。

最初のヒントは「説明責任」です。
会社を経営するとたくさんの関係者が発生します。株主、従業員、顧客(クライアント)、利用者(カスタマーやユーザー)、仕入れ先、あるいは地域社会や国際社会なども含めますと大変な数です。
経営者はこうしたたくさんの関係者に経営の実像を伝えることが求められます。経営者が逃れることのできない「説明責任」というものです。
例えば、第52話で川崎重工業の社長解任という事件をお伝えいたしました。上場企業、しかも川崎重工業という大企業の代表取締役が解任されるのですから、とんでもない大事件で、川崎重工業にはその原因、あるいはそれによって生じる問題や解決策を説明する責任があります。
そこで、川崎重工業は記者会見という形態を取って説明をしました。コラムでは紹介できませんでしたが、問題はその中身です。
かいつまんでご説明いたしますと、「代表取締役をはじめとする3名の取締役は他の10名の取締役に事前説明もせず、了解も得ないで勝手に三井造船との合併交渉を進めていた、これは許されない」という内容でした。
筆者は「あれれ」と思いました。
それは、取締役会というインナー(身内)の問題を説明していたからです。「事前に説明もせず、了解も得ないで」というのは、13名の取締役会内部の合意形成、意思決定のメカニズム上の問題であって、取締役会の外にいる関係者には何の関係も無いことです。
取締役会の外にいる関係者にとっての問題は、「代表取締役を解任し」「三井造船との合併を止める」ことが川崎重工業のこれからの経営にとってどんな影響をもたらすのか、です。
取締役会でどんな方法で決めたにせよ、その決定が川崎重工業のこれからの経営にプラスをもたらすものであれば、取締役会の外にいる関係者にとっては歓迎すべきことなのです。
従って、あの記者会見では「事前に説明もせず、了解も得ないで」を説明するのではなく、「三井造船との合併」が川崎重工業のこれからの経営にとっていかにマイナスであるか、その代わりにこうした方策を考えている、ということを説明すべきではなかったかと思うのです。

このように経営者に求められている「説明責任」とは、関係者に必要とされる事項を的確に伝えることに他なりません。

その意味で、日本経済新聞の「私の履歴書」で紹介されているテンプスタッフの創業者篠原欣子さんのお話は興味深いものでした。
平成2年、今から20年ほど前、急速に成長を遂げているテンプスタッフで社内の若手社員から経営者の篠原さんへ意見書が上げられたという事件です。その中身は、①経営方針及び目標を明確にして欲しい、②計数管理を確立し、責任の所在を明確にして欲しい、③実力と成果に基づく評価をして欲しい、というものでした。
いわば、関係者の中でも重要な位置を占める従業員が経営者に対して「説明責任」を求めたものと言えるでしょう。これも経営者が逃れることはできない「説明責任」です。
ここで篠原さんが偉いのは、耳の痛い意見書をきちんと受け止めた、ということです。そして、今日のテンプスタッフに至る成長の道筋をきちんと定めた、ということです。
これが「聞く耳を持つ」、そして「経営判断をする」、そして「結果責任を取る」というお話につながることになります。

C「バーナンキ・プット」

日本経済新聞が6月22日にとりまとめた「社長100人アンケート」というものがあります。
日本を代表する主要企業100社の経営者を対象にするもので、経営者が日本の経済をどう見ているのかを示す面白い指標の一つです。
今回は、主だった項目をざっと見てみますと、「国内景気の現状」に対して、「順調に拡大」5.4%、「緩やかながら拡大」85.1%、「横ばい」9.5%と、全体の90%が“拡大”と答えており、これは前回調査(今年3月)の65%、前々回調査(昨年12月)の5%から大きく伸びています。
「国内の個人消費」に対しても、80%を超える社長が「活発になっている」と答えているのとあわせますと、経営者が日本の経済に明るさを感じている現われと言えるでしょう。
そういえば、財務省の予想よりも数兆円多く法人税の収入が見込まれるという記事もありましたので、社長さんたちの足元(自分の会社)も黒字基調なのでしょう。

問題は、二つあります。
一つは、景気が上向くと経営者はどういった経営を選択するのか、です。
もう一つは、これが6月22日という微妙な時期にとりまとめたことですが、その話は後にして、まずは100人の経営者はどういった経営を選択するのか、です。
経営者が国内の景気は拡大しており、個人消費にも明るい兆しがあると見ていれば、当然ですが経営者は“攻め”の行動を選択することになります。
その選択肢のうち(多肢選択式)、もっとも重要視するのは「設備投資」62.2%、「M&A(企業買収)」42.6%、「研究開発」35.1%という順番で、「人員の増強」や「従業員への還元」は10%以下に留まっています。
景気の拡大が雇用の増加や待遇の改善にはなかなか向かない、というのは残念な話ですが、そうは言っても「設備投資」に経営が向けば、要するに日本の設備が増加する、あるいは新しくなるということですから、日本全体としての雇用環境は間違いなく改善されることになります。
これは、これから社会へ出て行く皆さんに悪い話ではありません。あとは、皆さんの動機や価値観とミスマッチしない選択をされることです。

もう一つの問題は、まさにこれが6月22日という微妙な時期にとりまとめたことです。
というのは、6月20日、アメリカでは激震が走ったからです。
それは、米連邦準備理事会(FRB、日銀のようなものです)のバーナンキ議長が「量的緩和(バーナンキ・プット)をそろそろ通常ベースに戻す」と発表したからです。
既に皆さんは第31話「アベノミクスと信用供与」でアベノミクスの一面が輪転機を廻して資金を市場へ大量に投入することだ、とご承知ですが、これは日本だけの話ではありませんで、アメリカ、ヨーロッパと世界中の主要国が揃って輪転機を廻していると言ってもよいのです。
喩(たとえ)は悪いですが、元気の無い病人へこれでもかこれでもかと点滴で糖分を注入するようなものです。
一時は「元気」になります。何せ、血液中の糖分が増えるのですから体にエネルギーが沸いてきます。しかし、続ければどうなるでしょう。そうです、糖尿病の恐怖が迫ってきます。
さすがにバーナンキは経済の大専門家ですから、こうした異常で過激な治療を続ければ体が持たないのはよく承知しています。以前にもバブルの事例でお話を差し上げた「過剰流動性」の落とし穴が待ち受けているのです。
そこで、アメリカの景気が回復基調に入ったこの時期をつかまえて、バーナンキは「そろそろ輪転機を普通の状態に戻しますよ、資金を過剰に供給するのを止めますよ」というメッセージを送った訳です。

これはだぶついた資金を株や債券に廻して大きな利益を得ている人たちには激震となりました。次の日、アメリカをはじめとする主要国の株式市場は軒並み大幅な値下がりに見舞われ、そうした資金がたくさん流入していた新興国でも株や不動産が値下がりしました。
この状況を踏まえても、「社長100人アンケート」は同じような回答になったのだろうか、と筆者は思うのです。アンケートはとりまとめのタイムラグで、おそらく1週間以上前の回答がほとんどだったと思われるからです。
しかし、日本の株式市場は次の日、逆に値上がりに転じました。24日午後2時でもそう大きな値下がりには至っていません。
これは、「輪転機が通常に戻る=ドルが乱発されない」というメッセージがドル高=円安=輸出増という流れを見込んだこともありますが、やはり日本の大企業の経営が大幅に好転している、という実態を反映しているからでもあります。

いずれにしても、アベノミクスは本格的な規制緩和へと走り出すでしょうから、現時点での円安株高や景気回復が本当に持続的な成長につながるかどうかは、その結果次第です。
量的緩和が一種の対処療法だとすれば、規制緩和は一種の原因療法のようなもので、病気を本気で治すには対処療法ではなく原因療法が必要だと思うからです。
そして、これから社会へ出て行く皆さんの未来にも規制緩和=原因療法は大きな影響を及ぼすと思うのです。

C「クラウドファンディング」

以前、プロジェクトの今後を検討している際に、佐久間陽一郎さんから勧められたのがクラウドファンディングを活かして開業資金を集めて、独立したらどうですか、という究極の選択でした。
さまざまな事情があって開業はしませんでしたが、クラウドファンディングが日本でそれほど普及するとは思っていなかったこともあります。
しかし、さすがに佐久間さんの先見性は飛び抜けています。

クラウドファンディングとは、特定のプロジェクトに対して不特定多数の人がインターネット経由で財源の提供や協力を行うことで、群衆(crowd)と資金調達(funding)を組み合わせたものです。まあ、Webを経由してたくさんの方から少額の資金を集めることができますので、いかにも近未来的な情報社会の仕組みと言えるでしょう。日本では資金決裁についての法規制や税控除の問題がありますので、投資や寄付は難しいのですが、何らかの権利やサービス、あるいは品物を買う代わりに資金を提供する購入型のシステムが増えています。ざっとWebで調べただけでも、CAMPFIRE、READYFOR、motion gallery、COUNTDOWN、kibidango、Shooting Starとかなりの数になっているようです。
皆さんも起業を考える、あるいは社会的なプロジェクトを考える際には、一つの選択肢としてご検討されるのも悪くないでしょう。

ただし、筆者は「今の日本の」クラウドファンディングが理念や情緒先行へ流れていることにある種の懸念を抱いています。
それは、ビジネスはあくまでもビジネスですから、善意とか使命感とか社会的貢献とか、そういったものが入れば入るほど成功しにくいと思うからです。ですので、クラウドファンディングも「投資家をWebで募り、成功したらリターンする」という基本的なところを大事にするのがよろしいと考えています。そうでなければ、Web上での赤い羽根募金のような方向へ流されてゆき、「責任なければ成果なし」に陥るのではないかと危惧しています。

同時に、「投資」あるいは「融資」においては、出し手と受け手のある種の信頼関係と緊張関係が必要だと思いますので、そうした信頼関係や緊張関係が顔の見えない、声のしないWeb上での擬似コミュニティで形成されるのだろうか、という心配もあります。この種の想いは、かなり以前にWeb2.0の概念として、Web上での自由な個の拡がりが新しいコミュニティを形成するという世界観が示されたとき、半分は「そのとおりだ」と思う反面、半分は「そううまくゆくのかい」と思ったときの感覚と同じものでしょう。

この感覚はその後隆盛を極めるSNS(social networking service)にも付きまとうもので、既に現実社会のコミュニティで十分すぎるほどの出会いがあり、知識や経験を得るのにも十分と感じているのに、これ以上の出会い、これ以上の知識、これ以上の経験をWeb上で重ねても、はたして消化できるのだろうか、過剰という海の中で溺れてしまうのではなかろうか、と怖れる感覚があるのです。
それはツイッター(Twitter)のような言葉の切り売りと言える仕組みが、はたして自分の考えを過不足なく、誤解なく、他者へ伝えるのにふさわしい道具といえるのだろうか、と思うのと似たようなものかもしれません。

もちろん、まもなく還暦を迎えようとする筆者が時代の流れに適合できなくなっていることの現われだ、と言われればそのとおりですし、一般的に加齢は保守的な考えをもたらすと言われますので、それもあるでしょう。
しかし、どことなく感じる違和感を筆者は大切にしたいと思っています。どうお伝えすればよいか、「これは自分の使う道具ではない、どこか感覚があわない」とでも表現しておくことにしましょう。
とあれ、皆さんもクラウドファンディングをこの機会に覚えておかれると、将来の選択肢が一つ増えるのではないでしょうか。
そして、同時にピーター・ドラッカーの次の言葉もご記憶いただければと思うのです。
「成果をあげるには自由に使える時間を大きくまとめる必要がある。小さな時間は役に立たないことを認識しなければならない。」
いかがでしょうか、筆者には浅薄なWeb社会に対する警句のように思えて仕方ありません。

F「人の魅力」

魅力的な人というものはどういうものかと、よく考えます。というのは、社会で活動する際、やはり魅力的な方が得だと思うからです。しかし、この魅力的というのは難しいものです。姿形、立ち居振る舞い、ファッションセンス、運動能力、弁舌の冴え、頭のよさ、まあ、いろんなことが考えられるからです。
しかし、筆者は行動科学を学んだ人間ですので、少し魅力というものを人間の能力の面から考えてみたいと思います。皆さんも魅力を身に付けると、社会ではかなり有利になるからです。ただし、能力が高いほど魅力的なのは当たり前ですから、ちょっと視点を変えて、“天才”と“生まれたまんま”と“凡人”という要素で見てみたいと思うのです。

前回、お話を差し上げたように私たちは(皆さんのほとんども多分)“凡人”です。これは、ある意味では幸せなことです。“天才”のように自分を狂気に追い込むことはありません。“生まれたまんま”のように革命でひっくり返されることも無いからです。しかし、そうは言っても私たちは“天才”や“生まれたまんま”にある種の憧れのような、羨ましいような、そういう感情を抱くようです。
“天才”や“生まれたまんま”は、天から使命や能力、あるいは経路(銀の匙)を与えられた人です。それに対して“凡人”は自分の人生を自分で決めるしかありません。それは、“天才”や“生まれたまんま”にはアプリオリ(a priori、先天的)な何かがあるのに対して、“凡人”はアポステリオリ(a posteriori、後天的)なものを作り上げなければならないからだ、とも言えます。
私たち凡人が感じる魅力は、“天才”や“生まれたまんま”がある種の「子どもっぽさ=天から与えられたアプリオリなもの」を失わないからかもしれません。考えてもみてください。私たち凡人はどんどんどんどん「子どもっぽさ」を捨てて「大人臭く」なっていきます。好奇心などどこにも見当たらず、無感動に生きている、生命の躍動感、ワクワクやドキドキをまったく感じられない「大人」に近づいて行きますが、これでは人間としての魅力はゼロと言ってよいでしょう。では、どうして「子どもっぽさ」が魅力につながるのでしょうか。

ギンギツネの実験で、「子どもっぽさ」の研究をしたロシアの科学者がいます。
私たちが可愛がる「犬」という生き物がいますが、この「犬」は、あの恐ろしい「狼」から生まれました。犬と狼の遺伝子はまったく一緒、犬は狼の一種なのですが、ではどうして狼は犬になったのか、彼はそのメカニズムを再現しようと50年前に決意しました。さすがに狼を飼うのは大変なので、狼に近い生物で、狼よりは小さく、手間がかからず、捕まえやすい生物を探しました。それはシベリアにたくさん棲んでいるギンギツネです。
このギンギツネを飼育して、その中から人間に馴れやすいものを選抜して掛け合わせ、次の世代を作り、その中から人間に馴れやすいものを選抜して掛け合わせ、次の世代を作り、ということを50年繰り返したら、なんと犬と同じように人間にじゃれつき、尾を振り、甘えて餌をねだり、人間の命令に従う犬的な狐=ペット狐が誕生したのです。今、ロシアではこのペット狐がブームになっていますから、いずれ日本でも見かけるかもしれません。

この50年にわたる研究で明らかになったのは、実に興味深い“犬化のメカニズム”でした。それは、「犬とは狼の子ども時代が一生続く種類だ」ということです。犬は“子どものまんま”の狼だったのです。
子ども時代はどんな生物でも無警戒で、自分の周りに甘えて生きています。子犬にしても、小鳥の雛にしても、人間の子どもにしても、皆そうです。ひたすらに無警戒で、好奇心が旺盛、自分の周りに甘えて、食べ物をねだり、与えられなければ泣いて訴えます。「もっと与えてよ」と。
しかし、大人は違います。自分の敵と味方を見極めます。無警戒ではありません。敵と疑われるものには警戒信号を送ります、そう吠えます。敵と疑われるものには攻撃します、そう噛みつきます。
犬はどうでしょうか。狼とは違います。自分の周りにいる人間には無警戒で、好奇心が旺盛、甘えて、食べ物をねだり、与えられなければ泣いて訴えます。これと同じ現象が狐でも起こって、なんとペット狐の誕生です。

要するに、人間は子どもが大好き、だけれど子どものまんまでは困る。大人だけれど、その中にキラッと子どもっぽさが光るのが好ましいのです。「愛すべき人だ」とか、「天真爛漫で魅力的だ」とか、「まったくわがままなんだけど憎めない」とか言われて、人に好かれ、愛される人には、どこかしら子どもっぽさがあるものです。
それは、子どもは人間の大切な要素である「好奇心」「挑戦する気持ち」「無邪気さ」を現わしているからです。ですから、「あの人は子どもだから」と言うのは痛烈な批判ですが、「あの人は子どもっぽいのよね」と言うのは必ずしも批判ではないのです。「わがまま」と「可愛い気」の微妙な違いと言えるかもしれません。
「自分は子どもだ」と思い、それを反省することは大変重要ですが、だからと言って、子どもをすべてかなぐり捨てて、しょうもない大人になるのも考えものです。「好奇心」「挑戦する気持ち」「無邪気さ」を残しながら大人になれたら素晴らしい人生だと、いつも思うのです。
その意味では、ほんの少しの“天才”と少しの“生まれたまんま”と圧倒的な“凡人”を足し算するのが、私たちにとって魅力的な人間像になるのかもしれません。

C「社長解任」

NHKによると「重工大手の川崎重工業は13日、臨時の取締役会を開いて、三井造船との経営統合に反対する取締役の決議で、統合に積極的だった長谷川聰社長ら3人を解任し、経営統合に向けた交渉を打ち切ることを決めたと発表しました。発表によりますと、川崎重工業は13日に開いた臨時の取締役会で、三井造船との経営統合に積極的だった長谷川聰社長と高尾光俊副社長、それに廣畑昌彦常務の3人を13日付けで解任し、三井造船と進めてきた経営統合の交渉を打ち切ることを決めました。」とのこと。
皆さんも社会に出て、会社に勤める際、会社統治の基本的なルールを知るのは重要なことです。また、自ら起業する、あるいは中小企業や小規模事業者など規模の小さな会社に勤める際はなおさらです。

一般的に会社は株式会社としましょう。細かい話をしますといろいろありますが、ほとんどの会社は株式会社(旧有限会社も含んで)ですので、会社は株式会社として考えます。
そうしますと、会社の最大の意思決定者は株主ということになります。会社経営の基本的な事柄はすべて株主総会で決められ、経営陣(普通は取締役会)は株主総会の決定に沿って日常的な会社経営を担うことになります。

さて、ここでNHKの報道の曖昧さを指摘しますと、「社長ら3人を解任した」とありますが、何の役職を解任されたのかはわかりません。社長を解任されたのか、取締役を解任されたのか、代表権を解任されたのか、必ずしも明確ではないのです。実は、この三つはまったく意味が違うのです。
まず、取締役は取締役会では解任できません。任期中の取締役を解任できるのは、株主総会だけで、しかも3分の2以上の賛成が必要な特別決議ということになります。ですから、この3人も取締役を解任されたのではなく、役付の常勤取締役から無役の非常勤取締役になった、ということのようです。
次に、社長という役職は会社法ではまったく意味がありません。それは、その会社が決めているだけの名称ですので、社長、頭取、会長、専務、常務、CEO、副○○、なんでもそうですが、こうした役職はその会社が名づけている一種の符丁に過ぎません。
となると、問題なのは代表権(会社を代表して契約したり、日常の業務を決定したりする権限)です。取締役を決めるのは株主総会ですが、取締役の中から代表権を持つ取締役を決めるのは取締役会です。取締役会が決めれば、代表取締役ということになり、その後ろに社長とか会長とか専務とか、その会社が名づけた役職がくっつくのです。代表取締役社長とか、代表取締役会長とか、代表取締役専務とかになります。
従って、今回の川崎重工業では取締役会で代表取締役の代表権が解任され、別の取締役が代表取締役(社長)になった、ということです。そして、社内の役職として常勤取締役の3人が無役の非常勤取締役になったということなのです。

そうしますと、解任された社長さんにまったく復活の可能性が無い訳ではありません。取締役会では負けても、株主総会で勝てばよいのです。株主総会で取締役に選ばれ、かつ彼に味方する取締役を半数以上確保できれば、再び彼は代表取締役社長に返り咲くことができます。
しかし、日本のほとんどの大企業ではそうなりません。それは、そういった議決を可能にするだけの株式を保有する株主が存在しないからです(オーナー企業では別ですが)。

ここで、株主の力を図る目安をお伝えしましょう。
それは、66.7%、50.1%、33.4%という三つの目安です。
まず、わかりやすいのが50.1%でしょう。株式全体の50.1%の賛同が得られれば、会社経営に関する普通の決議は勝ち取ることができます。取締役の選任などがそれにあたります。
ただし、過半数では決められないことがあるのです。それは、特別決議と言われるもので、会社の解散や合併、定款の変更、事業の譲渡、取締役の解任など、会社の経営を大きく変える場合は基本的に3分の2以上の賛成が必要になります。従って、ある種の拒否権を揮える数字が33.4%ということになり、特定の人に拒否権を揮わせないで済むには66.7%以上の株式を支配する必要があるのです。

いかがでしょうか、川崎重工業の社長さんが復活するのは難しい、というのがおわかりいただけたでしょうか。また、会社統治として株主の持つ力を垣間見ていただけたでしょうか。

C「国際収支」

「4月における日本の経常収支が7,500億円の黒字」という報道がありました。
国の経常収支ってなんなの、という方も多いと思いますので、今回はそのお話を差し上げましょう。中小企業や小規模事業者の収支を考えるうえでの参考にもなると思います。

以前、税金の話で売上(収入)-費用=利益(所得)ということをお伝えしました。これは企業や個人の場合ですが、国も世界の中では企業や個人のように一つの独立した単位ですので、他の国とのお金のやり取りを同じように現わすことができます。これが国際収支(balance of payment)という考え方です。
その国際収支は、基本的にお金の出と入りでトントンになります。それは、仮に他の国との貿易のやり取りで赤字になっても、赤字分のお金はどこかから調達しないと埋められないからで、こうした貿易などのやり取り以外のお金の調達を「資本収支」と呼び、貿易などのやり取りを「経常収支」と呼んでいます。
この経常収支が黒字だ、ということなのですが、実はこのところ経常収支の赤字が続いていて、ようやく黒字に戻った、というのが現状です。

では、黒字の中身を見てみましょう。まず、所得収支(海外からの利子や配当の入りと海外への利子や配当の出の差)は2兆円を超す黒字、サービス収支(旅行や物流などで海外へ支払う額と海外から受け取る額の差)は4千億円を超す赤字、そして貿易収支(輸出と輸入の差)は8千億円を超す赤字で、差引7,500億円の黒字ということです。
所得収支が大きな黒字なのは、それだけ日本の企業が海外で活動していて、海外の利益を日本に持ち帰っているという証拠です。サービス収支が赤字なのは、外国から日本へ来るよりも、日本から外国へ出る観光客が多いことの証明です。問題は貿易収支の赤字で、長年輸出で食べていた日本が輸出では食べていけなくなっていることの現われです。
実は日本の経常収支が赤字になるのは極めて異常なことで、オイルショックなどの石油の高騰期以外で日本の経常収支が赤字になることはありませんでした。それは、輸出大国として巨額の貿易黒字が出ていたからです。それが、貿易収支が赤字に転落し、経常収支までも昨年後半から赤字が続いたので、かなり政府は慌てました。それには原発停止で天然ガスの高値輸入が急拡大したことも響いています。

さて、赤字で何か問題はあるの、という質問も出そうです。これは企業や個人の場合も同じですが、家計簿が赤字になればどうしますか。そうです、カードで借りるなり、親から援助を受けるなり、他から赤字分を埋めないといけません。経常収支が赤字になると、それを埋めるために海外から借金をする、海外から投資を入れる、海外から援助を受ける、そういったことでお金を導入することになります。世界には巨額の経常赤字を抱えながら成長している国がアメリカをはじめとしていくつもありますから、それが悪い訳ではありません。しかし、これまで赤字になったことのない国が赤字になり、海外からのお金に頼るようになるのは、かなり大きな衝撃です。できれば、そうした事態は避けたい、というのが本音だと思います。

それが、貿易収支の赤字は続いていますが、経常収支としては黒字になったので、一安心というところでしょう。
しかし、貿易収支の赤字には大きな問題があります。それは、企業が日本国内では生産をせずに、海外で生産していることの現われでもあるからです。皆さんは、日本の製造業の設備年齢が平均13.4年と老朽化していることは第41話「減価償却」で既にご承知です。設備の老朽化は、それだけ国内生産の効率を落とし、国際競争力を低下させます。そして、所得収支の巨額な黒字が示すように海外での生産は大いに利益を上げるのです。誰が見ても、企業が国内から海外へシフトしていることは明らかです。
これを国内にある程度戻しませんと、何よりも国内の雇用が回復しません。そのためには、老朽化している国内の設備を更新させ(設備投資)、国内での生産を回復させないと、結果して新規採用は増えないのです。
これが秋にも第二弾の成長戦略を発表するであろう安倍政権が今直面している課題なのです。そして、これから就職戦線で戦う皆さんの雇用環境がどう変わるかを左右することにもなるのです。

さて、経常収支が黒字で、国際収支は必ずとんとんになるとしますと、資本収支は経常収支の黒字分だけ赤字ということになります。これは、一つは海外へ融資する、投資する、援助する、という形でお金が海外に流れるからです。具体的には、アメリカの国債を買う(融資)、アメリカの株を買う(投資)、中国に生産工場を作る(投資)ということです。この海外への融資、投資が所得収支の中で利子や配当という形をとって日本へ還流してくることになります。もう一つは、外貨準備という形で、海外のお金をそのまま国内に貯金することです。ちなみに日本の外貨準備高は100兆円で世界第2位、中国が250兆円で第1位、サウジアラビアが43兆円、ロシアが36兆円、台湾が30兆円と、輸出国と資源国にお金が溜まっているのがよくわかります。

このように、国も企業も個人も家計簿として考えますと、お金の出入りがよくおわかりいただけるのではないでしょうか。

F「自分の人生は自分で決めるしかない」

“天才”、天から使命とそれを達成するに足る能力を与えられた人、ということでしょう。
佐久間陽一郎さんの喩(たとえ)をお借りすれば、「生まれた福島県いわき市は自然がとても美しかった。パンと手を叩くとイナゴが舞い上がる。何㍍も透けて見える海があり、潮騒の音で目がさめる。そういった自然美が救いだった。そのときに流れていた音は、どんな音でも“天来の妙音”のような感じで、私の中で響いていた。九歳のときベートーベンの交響曲第九番に出会った。ラジオから流れてくる音を聴いて、涙がボロボロ流れて立っていられないような感覚を覚えた。そのとき作曲家になろうと誓った。その瞬間、女神が通りかかって、お前は何になると問いかけたと思う。(炎のマエストロ小林研一郎)」、まさにこういう人を“天才”と言います。皆さんは九歳の時に何をされていましたか、女神に会いましたか、作曲家になろうと思いましたか。

“生まれたまんま”、生まれ育ってきた経路に疑いも持たず、そのままに進んでいって不自由も不幸せも感じないで済む人、ということでしょう。
言葉を変えれば、「銀の匙をくわえて生まれてきた(be born with a silver spoon in one's mouth)」ような人です。多くの場合は、素直で、好人物で、誰にでも愛されて、そういう人もいるのです。筆者のように「プラスチックの匙をくわえて生まれてきた(The Who)」のとは違うのです。

それはさておき、要するに私たちは(と言ってしまいますが)、“天才”でもなく、“生まれたまんま”でもない、ただの“凡人”なのです。
たかが凡人、されど凡人。
凡人には天から与えられたものはありません。それが使命であれ、能力(天賦の才)であれ、銀の匙であれ、命(いのち)以外は一切ありません。ですので、ある意味からすれば「自由」であり、「自分の人生を自分で決めるしかない」のです。
そう考えると、気が楽になりませんか。
間違って天才にでも生まれた日には、ゴッホのように自分の耳を切り、芥川龍之介のように自殺し、壇一雄のように火宅の人になりかねないのです。銀の匙をくわえて生まれてきたがゆえに、天と地がひっくりかえるような革命でギロチンにかかる悲劇もあるのです。
司馬遼太郎の名言に「年少にして高台に上るは一つの不幸なり」というのがあります。
私たちはどう逆立ちしても年少で高台になど上れないのです。

そうした凡人である私たちはどうしたらよいのか、ということです。
極めて単純明快、「自分の人生は自分で決める」のです。
それには、「自分が何ものであるかを知る」必要があります。
そして、「自分の人生を歩むために成長する」しかないのです。

皆さんは年少にして普通の台に上っています。それでよろしいのです。あとは、一つひとつ階段を上るように成長すればよいのです。
そうすれば、自ずと自分の道が見えてきます。焦らず、慌てず、さぼらず、遅れず、一歩一歩です。
どのみち長い道のりになります。
そうした皆さんの長い旅路、自分探しの旅のお伴になれれば、このコラムは幸せと言うものでしょう。
ただし、今はまず社会へ出ましょう。中小企業や小規模事業者も選択肢として、まずは社会へ出ましょう。社会へ出ることで人生の新しい1ページをはじめましょう。

F「コンピテンシーを伸ばす」

第45話で「意識して行動することが能力の向上につながる」というお話をいたしました。
しかし、「どう行動したらよいのかわからない」という方も少なからず存在するでしょう、
そこで、今回はコンピテンシーを伸ばすにはどのように意識し、どのように行動すべきか、という具体的な方法をお伝えしたいと思います。

まず、最初に必要なことは「能力とは何か」という認識です。何が能力か、それがわからなければ、能力を伸ばすことはできません。しかし、皆さんは既に能力が“多層構造”で構成されていることを認識されています。そして、必ずしも万全ではないですが、それを構成している「知識」「スキル」「コンピテンシー」「価値観」「動機」の存在を認識されています。従って、少なくとも能力とは何か、については既に入り口に立っていると言えるでしょう。「知識」と「スキル」の詳細は今後お伝えいたしますので、しばらくお待ちください。

次に必要なことは、そうした能力のうち「何を伸ばすのか」という目標設定が必要です。その多くは皆さんの目標を達成する、あるいは皆さんが選ぶ職業で成果をあげるために必須なのに自分には欠けている(自分には弱い)ものです。場合によっては、自分はかなり強いがさらにその強みを伸ばそうということもあるでしょう。
既に第46話「コンピテンシー」の中で、「自分自身を考えたとき、これは強くあるな、と思えるもの、逆にこれはかなり弱いな、と思えるものを選んでください。」とお伝えいたしましたが、まさにこれです。

こうして、皆さんは能力とは何かを認識し、その中で自分が伸ばそうという能力も特定できました。こうなりますと、あとはまさに「意識して行動する」ことです。

コンピテンシーを伸ばす場合、よく言われるのがPDCAサイクルです。P(Plan)でまず何をすべきか計画します、D(Do)で計画を実行します、C(Check)で実行した結果を評価します、A(Act)で計画を改善します、そして再びPへ戻って次の計画を立て、DCAと繰り返すということです。ただし、コンピテンシーの場合は、「自分で体感する」という行為と、「結果を周りがどう評価したのかを観察する」ということを重視しますので、Cの中に体感と観察が入ると考えてよろしいでしょう。文章で表現すれば、まず何をするかを考え、それをとにかくやってみて、どうなるかを自分で体感し、周りがどう反応したのかを見る、そして次に何をするか考える、という具合になるでしょう。
いかがでしょうか、ある意味では単純なことです。

ところが、必ずこういう質問が来ます。「何をしたらよいのかがわからないのです」、そうです、それがわからないとはじめられません。しかし、「何をしたらよいのか」は自分で考えるしかないのです。なぜならば、人の置かれている環境はみな違いますし、人の能力もみな違いますので、絶対的な定理などは存在しないのです。

そう言ってしまいますといかにも不親切ですので、筆者ならばこういう行動を、という例をいくつかお伝えいたしましょう。
関係構築力というコンピテンシーについては、「お昼を食べるレストランでも、夜にお酒を呑む居酒屋でも、どこでもかまいません。三回、そのお店を使ったら、お店の人に顔と名前を覚えていただくよう工夫してみてください。」、そう第5話で提案いたしましたが、まさにこれです。他には「はじめて会った人にはその日のうちにメールで御礼と感想をお伝えする」とか「苦手な人には自分から先に挨拶する」とかもお薦めですね。
徹底確認力というコンピテンシーであれば「毎日家計簿をつける」、これが実用的でお薦めです。最初は「使途不明金」がいろいろと出てきます。現金残高と収支結果があわないのです。しかし、徐々にそれは減り、そのうちに1円あわないと気分が悪くなります。そうなったらしめたもので、かなり徹底確認力は改善されています。
いかがでしょうか、そんなに面倒臭く考えずに、まずは何でもかまいませんので自分なりに工夫して、とにかくやってみてください。

F「コア・コンピテンシー②~例題の回答~」

【例題1】川のこちら岸に四艘の舟があります。一つ目の舟は川を渡るのに1分、二つ目は2分、三つ目は4分、四つ目は8分かかります。あなたは船頭で、一回に二艘を向こう岸へ渡すことができます。その場合は、遅い方の舟の時間がかかります。1分の舟と2分の舟を一緒に渡せば2分です。すべての舟を向こう岸へ渡すのに何分かかりますか。一度に二艘を向こう岸へ渡し、一掃でこちら岸にもどり、また二艘を、という繰り返しです。
⇒4分かかる舟と8分かかる舟を一緒に向こう岸へ渡す、ということに気づくと15分へ導かれます。1分と2分、1分と4分、1分と8分というコンビで考えると16分になります。
【例題2】正方形の4つの頂点と4つの辺の真ん中の点、あわせて8つの点と、正方形のど真ん中の点、あわせて9つの点を直線で一筆書きしなさい。要するに正方形を4つの正方形へ分け、それぞれの頂点を点とすれば9つになります。この9つの点を一筆書きの直線で結びなさい、その場合の直線の数はいくつですか、ということです。
⇒正方形の枠をはみ出すことに気づくと4本へ導かれます。正方形の枠の中で考えると5本になります。
【例題3】レストランのウェイターやウェイトレスに必要なコア・コンピテンシーは何か、を答えていただきます。コンピテンシーの数はいくつでもかまいません。
そのために、まずウェイターやウェイトレスの仕事を箇条書きしてください。いくつでもかまいません、一つひとつの作業に分解して、仕事は何なのかが一目でわかるようにしてください。
次に、あなたがレストランへ行って、感じのよかったウェイターやウェイトレスはどんなことをしてくれましたか。これも箇条書きしてください。いくつでもかまいません。
この二つの箇条書きを見て、コア・コンピテンシーを20のコンピテンシーから選んでください。
⇒この例題を研修で実際にやりますと、次のようなコンピテンシーが上がってきます。
達成指向性、徹底確認力、先見性、対人理解力、顧客指向性、対人影響力、チームワーク、専門性、情報指向性、自制力、自信、柔軟性などなど。確かにあればあった方がよいでしょうが、これでは「コア」という意味がありません。
皆さんは、椅子を作る場合、三本足の椅子と四本足の椅子とどちらが作って楽かご存知でしょうか。これは幾何学を知る人には簡単なことですが、平面は3つ以上の点で構成される、という定理からしても三本足です。四本足の椅子は頂点の属する平面が複数になりますから、足を四本ともきちんと同じ長さにしないと椅子はがたがたしますが、三本足の椅子は足の長さがあっていなくても椅子はがたがたしないのです。
それと同じように、こうした原因を考える、ポイントを整理するような場合は、複数の選択肢を三つに絞るのが理解への早道です。
筆者がいつも教えるのは、まずは「顧客指向性」ということです。これは、お客さま第一というポイントがしっかりしていれば、お客さまのために調べたり(情報指向性)、料理や器の勉強をしたり(専門性)、次の行動を予測したり(先見性)、自分の感情を抑えたり(自制力)、けっこうやれるものなのです。従って、まずは「顧客指向性」。
次に「徹底確認力」、これは会計をしたり、注文を調理場に伝えたりする際に欠かせません。そして、最後に「チームワーク」です。レストランは複数の職場で成り立っていますし、ウェイター、ウェイトレスも一人ではないでしょう。そうした場合、どうしてもチームワークは欠かせません。
ということで、レストランのウェイターやウェイトレスに必要なコア・コンピテンシーは「顧客指向性」「徹底確認力」「チームワーク」の三つだ、と言えるでしょう。
従って、皆さんがレストランを経営する場合、この三つのコンピテンシーに欠けている人を雇ってはいけません。要するに向いていないのです。

同様に、あらゆる職業や仕事には欠かせないコア・コンピテンシーがあります。レストランのウェイターやウェイトレスの仕事はまだしも単純ですので簡単に三つに絞れましたが(絞ることは簡単でも、絞ったコンピテンシーを極めるのは難しいのです)、なかなか絞りにくい職業や仕事も多いのです。しかし、やはり欠かせないな、と思うコンピテンシーはあるはずですので、皆さんがこれから職業や仕事を選ぶ際は、その職業や仕事に欠かせないコンピテンシーはなんだろうか、と考えてみてください。そして、そのコンピテンシーが自分に備わっているかどうかも考えてみてください。備わっているようだったらさらにそれを伸ばしましょう。備わっていないようだったら「意識して行動する」ことで身につけるか、「自分には向いていない」と方向転換するのがよろしいと思います。

F「コア・コンピテンシー①~ウェイトレスに必要なコンピテンシー~」

前回ご紹介した20のコンピテンシーのうち、特定の仕事に欠かせない特定のコンピテンシー、あるいは特定の目標を達成して成果をあげるために必須な特定のコンピテンシーを“コア・コンピテンシー”と言います。
皆さんには、皆さんの目標に欠かせないが現在は欠けているコア・コンピテンシーを考えていただきたいのですが、まずはその前にコンピテンシーのおさらいと、コア・コンピテンシーを考えるための例題をお伝えしたいと思います。

20のコンピテンシーのうち、難しいもの、わかりにくいもの、重要なものを補足的にご説明します。
①達成指向性:高い目標を設定し、目標に執着し、それを超えることや、そのために計算されたリスクをとる。
⇒これは“達成動機”と非常に密接な相関関係があります。コンピテンシーの中でもより深いレイヤーに存在します。どんな仕事をする場合でも欠かせないもので、あらゆる能力の基本とも言えます。これが弱い人は要注意です。
②徹底確認力:曖昧なこと、誤りを減らし、詳細なことに注意を払い、体系化する。
⇒金融機関で勤める場合や公務員など、間違いの許されない仕事には欠かせません。
⑥対人影響力:論理的・感情的な影響力を意図的に活用して相手に影響を与える。
⇒これが異常に強いとカリスマになります。
⑦組織感覚力:非公式の政治力、組織構造、風土に敏感である。
⇒肩書きではなく、本当の実力者を見抜く感覚のようなものです。どんな組織にもキーマンがいますが、それを嗅ぎ分けることも必要になります。
⑨強制力:行動基準を設定し、その基準通りに行動させる。
⇒権力動機や達成動機が弱い人には苦痛です。
⑭情報指向性:質・量の両側面から、執拗に情報を収集する。
⇒おばさんの井戸端会議のようなものです。誰と付き合っている、どんな食べ物が好き、ファッションの趣味まで、徹底的に調べてしまいます。
⑲組織指向性:組織の基準・ニーズ・目標を理解し、それを促進すべく行動する。
⇒自分の属する組織への同化意識につながり、保守的な大企業や官公庁では欠かせないものです。
⑮分析的思考力:複雑な問題を分解し、整理する、因果関係を掴む。
⑯概念的思考力:パターンを見抜いたり、考え方をつなぎ合わせ、新しい見方を作り出す。
⇒この二つは何が違うか難しいので、例題を出します。要するに右脳(直感)と左脳(分析)の違いで、人によってどちらかの脳に偏っているのです。実際に例題を解いて、二つのコンピテンシーの違いをご理解ください。
【例題1】川のこちら岸に四艘の舟があります。一つ目の舟は川を渡るのに1分、二つ目は2分、三つ目は4分、四つ目は8分かかります。あなたは船頭で、一回に二艘を向こう岸へ渡すことができます。その場合は、遅い方の舟の時間がかかります。1分の舟と2分の舟を一緒に渡せば2分です。すべての舟を向こう岸へ渡すのに何分かかりますか。一度に二艘を向こう岸へ渡し、一掃でこちら岸にもどり、また二艘を、という繰り返しです。
⇒16分ならば分析的思考力、15分ならば概念的思考力が優れています。
【例題2】正方形の4つの頂点と4つの辺の真ん中の点、あわせて8つの点と、正方形のど真ん中の点、あわせて9つの点を直線で一筆書きしなさい。要するに正方形を4つの正方形へ分け、それぞれの頂点を点とすれば9つになります。この9つの点を一筆書きの直線で結びなさい、その場合の直線の数はいくつですか、ということです。
⇒5本ならば分析的思考力、4本ならば概念的思考力が優れています。

最後にコア・コンピテンシーを理解するための例題です。実際にトライしてみてください。次回に正解をお知らせします。
【例題3】レストランのウェイターやウェイトレスに必要なコア・コンピテンシーは何か、を答えていただきます。コンピテンシーの数はいくつでもかまいません。
そのために、まずウェイターやウェイトレスの仕事を箇条書きしてください。いくつでもかまいません、一つひとつの作業に分解して、仕事は何なのかが一目でわかるようにしてください。
次に、あなたがレストランへ行って、感じのよかったウェイターやウェイトレスはどんなことをしてくれましたか。これも箇条書きしてください。いくつでもかまいません。
そして、この二つの箇条書きを見て、コア・コンピテンシーを20のコンピテンシーから選んでください。

F「コンピテンシー」

精神的な能力は“多層構造”です。既にこの“多層構造”の一番深いところにある「動機」と「価値観」については、これまで触れてきました。
そこで、今回は「コンピテンシー(行動特性)」についてお話ししたいと思います。
これまでも第3話で関係構築力というコンピテンシーについてご紹介しました。「なお、コンピテンシー(行動特性)とは、こうした行動する癖のようなものです。癖ですので、意識すれば必ず身につきます。そういう癖を身につけると、少し自分が変われるかもしれませんね。」まさに、そのとおりで、コンピテンシーとは行動する癖のようなもの、意識すれば身につけることができます。

では、そうしたコンピテンシーには関係構築力の他にどういったものがあるか、ヘイ・コンサルティンググループのツールに沿ってお伝えしたいと思います。ちなみヘイは国際的な人事コンサルタントで、例えば上場企業の取締役を選ぶ際のアドバイスなどで日本でも活動しています。
まずは、達成能力に分類される三つです。
①達成指向性:高い目標を設定し、目標に執着し、それを超えることや、そのために計算されたリスクをとる。
②徹底確認力:曖昧なこと、誤りを減らし、詳細なことに注意を払い、体系化する。
③先見力:将来のニーズやチャンスを先立って考え、先取りしようと行動を起こす。

次に、支援能力に分類される二つです。
④対人理解力:言葉で表現されなくても、相手の思考や感情を察知する。
⑤顧客指向性:サービスを受け取る顧客のために行動する。

次に、影響能力に分類される三つです。
⑥対人影響力:論理的・感情的な影響力を意図的に活用して相手に影響を与える。
⑦組織感覚力:非公式の政治力、組織構造、風土に敏感である。
⑧関係構築力:個人的な信頼関係を築き、人脈を構築しようとする。

次に、管理能力に分類される四つです。
⑨強制力:行動基準を設定し、その基準どおりに行動させる。
⑩チームワーク:他のメンバーを評価し、組織の円滑な運営を促進するよう行動する。
⑪育成力:他人の資質を長期的に育成しようとする。
⑫リーダーシップ:メンバーを効果的にともに働くように導く、動機づける。

次に、問題解決能力に分類される四つです。
⑬専門性:有用な新しい専門知識・スキルを習得し、ビジネスに生かそうとする。
⑭情報指向性:質・量の両側面から、執拗に情報を収集する。
⑮分析的思考力:複雑な問題を分解し、整理する、因果関係を掴む。
⑯概念的思考力:パターンを見抜いたり、考え方をつなぎ合わせ、新しい見方を作り出す。

最後に、自己管理能力に分類される四つです。
⑰自制力:ストレス状況の中でも感情的にならないで行動する。
⑱自信:リスクの高い仕事に挑戦したり、権力のある人に立ち向かう。
⑲組織指向性:組織の基準・ニーズ・目標を理解し、それを促進すべく行動する。
⑳柔軟性:状況に応じて現在の仕事のやり方や方向性を変える。

いかがでしょうか、以上の20のコンピテンシー、今すべてを覚える必要はありませんが、これから折に触れて使うツールになりますので、第46話に20の説明があることは覚えていただき、必要に応じて第46話を開いてみてください。
今は、ざっと読んだ20のコンピテンシーのうち、自分自身を考えたとき、これは強くあるな、と思えるもの、逆にこれはかなり弱いな、と思えるものを選んでください。
皆さんの精神的な能力を考えるうえで、そしてそれを伸ばすために、とても重要なヒントになるからです。

F「意識して行動する」

皆さんが中小企業や小規模事業者で活躍する際、能力を伸ばすことを強く求められます。
同じように、スポーツ選手もその能力を伸ばすことを強く求められます。
そして、スポーツ選手は一流になるためにとにかく練習します。筋力トレーニング、ダッシュ、ランニング、練習試合、とにかくさまざまに練習し、実戦に臨みます。実戦もある意味では練習のようなもので、要するに自分のスポーツに関する能力を高めるためには、練習、練習、練習です。
例えば、皆さんが「走る」ことで健康維持を図ろうとしましょう。この場合も同じで、ある程度の負担を感じる距離を走りませんと、「走る」ことが健康維持にはつながりません。最初は数キロ、それがだんだんと伸びて、いつしか市民ランナーと呼ばれるようになる、なんてこともよくあるようです。このように練習とは、身体にある種の負荷を加えることに他なりません。

さて、身体的な能力の向上には練習が必要だと、それはご認識いただけたと思います。同じように精神的な能力を向上するにも練習が必要です。
しかし、スポーツとは違って、特定の様式(例えば投げる、あるいは走る、あるいは蹴る)にあてはまらないのが精神的な能力ですので、いったいどうしたら練習できるんだろう、と多くの人は頭を悩ませることになります。
また、身体的な能力はどういったものかわかりやすいのですが、精神的な能力は具体的にはわかりにくいという問題もあります。具体的な中身がわからないのに、それを向上させることはできません。

そこで、今回は①どうしたら精神的な能力を伸ばせるか、②精神的な能力はどういったものか、についてお話ししたいと思います。
順番は違いますが、まず精神的な能力とはどういったものか、を考えたいと思います。
第15話「人間の能力~知識~」でお伝えいたしましたが、皆さんは能力の一番深いところにあるのが「動機(社会的動機)」であり、それを制御するためにあるのが「価値観」であると、既に認識されていると思います。
このように、筆者は人間の精神的な能力を“多層構造(氷山モデル)”として把握しています。一番深い層に「動機」があり、その上の層に「価値観」があり、というようにです。この多層構造の一番浅い層にあるのが「知識」で、その下に「スキル」、そして「コンピテンシー(行動特性)」があり、その下に「価値観」「動機」となる、おわかりでしょうか、以上の5つのレイヤー(層)から私たちの能力は構成されていると考えています。
そして、このレイヤーは深いところにあるものほどわかりにくく、なおしにくい(向上させにくい)。逆に浅いところにあるものほどわかりやすく、なおしやすい(向上させやすい)、ということです。
例えば、皆さんがこれまで経験してきた競争試験のほとんどは「知識」を確認するものです。なぜでしょうか、それは「知識」を確認するのが一番簡単であり、また「知識」を向上させるのが一番簡単だからです(簡単なことは教えやすいことにもなるので、教師や学校は楽です)。
このコラムの目標の一つが、皆さんにこうした“多層構造”を理解していただき、さらに個別の「知識」「スキル」「コンピテンシー」「価値観」「動機」を詳しくお伝えし、そうした理解のもとに、次の「意識して行動する」に進んでいただくことです。

それでは、どうしたら精神的な能力を伸ばせるか、です。それは、身体的な能力を伸ばすためには練習によってある種の負荷を身体に加えなければならないのと同じで、精神にある種の負荷を加えることです。それが、「意識して行動する」ということに他なりません。意識しないで行動して能力を伸ばせるのは、“天才”と“生まれたまんまの人”だけです。この二種類の人間については後日詳しくお話を差し上げたいと思いますが、要するに私たちは“天才”でもなければ“生まれたまんまの人”でもない、ごく普通の凡人なのです。こうした普通の凡人は、意識して精神に負荷をかけないかぎり、能力を向上させ、成長することができません。
ただし、意識するにはまず意識する対象を認識しなければなりません。この認識にあたるのが、精神的な能力の“多層構造”であり、さらに“多層構造”を構成する個々の能力なのです。
常にそれを意識し、それを向上させるために常に意識して行動することが必要なのです。
具体的にどういった行動が必要なのかについては、これから先、順を追ってお伝えしようと考えていますが、まずは精神的な能力はどういったものか、これを「コンピテンシー」で深掘してゆくことにしましょう。ただし、皆さんは既に自分の「動機」を分析する、あるいは「価値観」を棚卸する、ということで具体的な行動の一端に触れているのです。分析も棚卸も、意識した行動の一つに他ならないからです。

C「プロフェッショナル」

筆者が市長秘書をしていた頃の話です。
組織も時として変な人事をしますが、本人も望まず、市長も望まず、組織としての市役所も望まず、という本当に不思議な人事でした。
とあれ、その秘書時代、大変感銘を受けたことがあります。
それは、市長の運転手さんです。

秘書と運転手はペアです。市長という“荷”を定められた時間に定められた場所まで運ぶのが使命です、まるで宅急便のように。それが半端な数ではありません。
一日に十会場も廻らなければならないこともザラです。朝に消防本部で訓示、次に中学校で祝辞、終われば市役所で会議、昼食の前に結婚式に顔を出し、昼食で政治家と会い、午後は落成式、それから市役所で会議、夕食の前に故人の線香あげ、終われば夕食を後援会と一緒に、その後は有力者との宴会を三件はしご、みたいな感じです。どこにも遅れる訳にはいきません。市長の到着時刻でスケジュールが決められているからです。まさに分刻みのクール宅急便です。
遠出のときもあります。そこでも何件ものはしご、見知らぬ土地ではとかくハプニングが起こるものです。
ところが、筆者のパートナーだったIさんという初老の運転手さんには驚かされました。休みの日には必ず休み明けの市長の行動予定に沿って、予行演習の運転をしているのです。もちろん、市内でわかる場所は省きますが、わかりにくい場所やはじめての場所はできるだけ休みの日に実際に運転するのです、自分の車で。
誰に命令された訳でもなく、休日勤務の手当はもとより、ガソリン代も出ません。まったくのサービス予行演習です。
ですので、このパートナーと一緒に働くかぎり、秘書はヘマをせずにすみます。本当に秘書向きでない筆者にはありがたいパートナーでした。

後年、ピーター・ドラッカーの「プロフェッショナルの条件」という本を読んで、次のことを教えられました。
「紀元前440年ころ、彼はアテネのパルテオンの屋根に建つ彫像群を完成させた。それらは今日でも西洋最高の彫刻とされている。だが、彫像の完成後、フェイディアスの請求書に対し、アテネの会計官は支払いを拒んだ。『彫像の背中は見えない。誰にも見えない部分まで彫って、請求してくるとは何ごとか』と言った。それに対して、フェイディアスは次のように答えた。『そんなことはない。神々が見ている』。」(「プロフェッショナルの条件」上田惇生編訳)
筆者はパートナーだった運転手のIさんとフェイディアスは同じレベルにあると受け止めています。両者とも、これがプロフェッショナルだ、ということです。要するに、自分の根源的なところ(運転手さんでは市長を運ぶ運転、フェイディアスでは彫刻)では、決して手を抜かずに徹底する、ということです。

ドラッカーは、これからの知識社会では人間はプロフェッショナルを目指すべきだ、と規定していますが、そのモデルとなるのが運転手のIさんとフェイディアスではないか、筆者はそう考えています。
もちろん、ドラッカー流に言えば、「自分自身をマネージメントし、もっとも重要なことに集中する人間」なのでしょうが、そこまで面倒に考えなくても、ここに一つのモデルがあると、筆者はそう考えています。

さて、皆さんも知識社会の中で働くことになります。その際、筆者がお薦めする一つの目標が“プロフェッショナル”です。言葉を変えれば、「自分の価値を自分で決める人間」です。しかし、皆さんの選択は決してそれだけではありません。いずれかの機会に、プロフェッショナル以外の選択とは何か、についてお話を差し上げたいと思います。

F「価値観」

皆さんが中小企業や小規模事業者で活躍するには能力を磨く必要があり、能力を構成する要素には動機、価値観、コンピテンシー、スキルなどがある、という話をしてきましたが、今回はそれを価値観という観点からお浚いしてみましょう。

人間が行動する際に(能力は行動において発揮されるものですから)、その一番深いところに存在しているのが「動機」です。この「動機」は、無意識的に存在していますから、よほど注意して見ませんと、自分自身でも気づかない場合があります。既に、「動機」がもたらした悲劇については、ある自殺を題材に第19話「気をつけるべき動機」でお話を差し上げました。
この「動機」をコントロールしているのが、今回お話しする「価値観」です。

「動機」をコントロールできなければ、人間は野放図に「動機」に支配されます。ちょうど、自我が確立していない子どもが我儘放題に振舞うのと同じことです。他人を無理にでも支配しようとする、それが満たされないと泣き叫び暴れる、食べたいものしか食べない、他人の目を気にせずにどこでも横になる、こうした子どもはよく目にします。
しかし、ある年齢に達すると、そうした「動機」をコントロールする術(すべ)を身に着けます。そうです、お行儀がよくなるのです。
この「動機」をコントロールするのが、「これをしてはいけない」「これをすべきである」という「価値観」です。

「動機」が先天的なものであるのに対して、こうした「価値観」は後天的なものです。必ず自分の身の回りから教えられるものです。例えば、私たちの「価値観」の多くは、両親、家庭、学校、会社、社会、そうした身の回りの環境から植え付けられます。
そして、私たちの一人ひとりの歩んできた経路が違うのと同じように、私たち一人ひとりの「価値観」もそれぞれの身の回りの環境が違うために少しずつ違っています。こうして、一人ひとりで異なっている「動機」と「価値観」が、私たちの個性を形作っていると考えてよいでしょう。
また、私たちホモ・サピエンスは第33話「考えるうえでのヒント」でお伝えしたように社会学習と同時に個体学習をしますから、「個体として工夫することで違う行動を取れるようになる」ことによって、身の回りから植え付けられる「価値観」を自分なりに取捨選択もします。ですので、一卵性双生児が同じ両親で、同じ家庭で、同じ学校で生きてきたとしても、二人の個性がまったく一致することはありません。エビちゃんの妹がエビちゃんと同じモデルの道を選ばないのと同じことです。

ここで考えていただきたいのは、「動機」と「価値観」は一致しないことがある、ということです。そして、「動機」と「価値観」のずれは、時として不幸を招きます。例えば、「会社では出世しなければならない」という「価値観」を持った人がいるとしましょう。そうした人の権力動機が強くないとしましょう。そうした人が実際に出世し、人を使う立場になったとしましょう。そうしますと、どうしても立場上、「人に強制する」ことが必要になりますが、その行為は「価値観」からすれば当然でも、その人の「動機」とは一致しませんので、必ず心理的な葛藤が生まれることになります。そうです、ストレスが生まれるのです。その際、「価値観」がより強く「動機」を押さえ込み、本来はやりたくない「人に強制する」ことを継続させるとしましょう。かなりの確率で鬱病や胃潰瘍などが起こりそうです。

ここで皆さんに考えていただきたいのは、皆さんの「価値観」を一度棚卸しすることです。「何をすべき」「何をすべきでない」、そうした皆さんの「価値観」を、そうですね重要と思われる順番から十個書き出してください。そして、書き出した「価値観」が今の自分に、これからの自分の希望する道筋にきちんと納まるものなのかどうかを考えてください。
筆者がかつて公務員であった頃に書き出した「価値観」と、今の筆者が書き出す「価値観」は大きく異なります。そして、その変化こそが成長だと、筆者は感じています。
皆さんの「価値観」も変えることができますし、変えることによって能力を向上させることもできます。ただし、それはある意味では「自分探しの旅」に出ることでもあります。それは楽しくもありますし、辛くもあります。なぜならば、「生きる」ということを心のより深い層で捉えようとすることに他ならないからです。
そして、「価値観」を変える際のポイントは、異なる「価値観」との出会いです。ですので、常に「出会い」を求め、「出会い」に備え、「出会い」を受け入れることも重要なことです。筆者は、それを「精神の素直さ」と呼ぶようにしています。皆さんも「出会い」を受け入れる素直さを大切にしてください。

C「日本経済新聞を読む~6月9日~」

皆さんが社会で、中小企業や小規模事業者で活躍するには、どうしてもリベラル・アーツを身に付けなければなりません。
「現代社会の常識のミニマムは日本経済新聞を読むことだ」と立花隆が言っているお話を第9話で差し上げました。筆者は「なるほど」と思っています。しかし、実際にはじめて日本経済新聞を前にすると、たじろぐ人も少なくないと思います。
そこで、今回は6月9日の日曜日の日本経済新聞をどう読んだのか、をご紹介いたします。

まず、新聞を読むとき、頭から読むかお尻から読むか、自分の好きな面から読むか、というスタイルの違いがありますが、筆者は基本的にお尻から読みます。それは、最後の文化面に興味深い連載がいくつかあるからです。
その第一は、連載小説です。渡辺淳一、宮城谷昌光をはじめとして、新聞から好きになった小説家がたくさんです。しかし、今の連載は面白くありませんからパス。
第二は、「私の履歴書」です。これも、ジャック・ウェルチ、ピーター・ドラッカー、安野光雅など、諸先輩がいろいろなことを教えてくれます。しかし、今続いているものは面白くありませんからこれもパス。
第三は、囲みの交遊抄で、どういった人との付き合いが財産になっているか、興味深いものが時々あります。信州大学の学長さんのが掲載されたこともあります。しかし、日曜日は哲学者の頭が痛くなるような問答なのでこれまたパス。
最後は、右上の美術選で、例えば「女性の美十選」のように芸術作品などが紹介されます。これもなかなかのセンスです。しかし、日曜日には掲載されませんのでパス。
で、お尻には見るべきものがありませんでした、残念。

次に、日曜日は決まって真ん中にある書評に目を通します。このところ、真面目に読もうという本はほとんどこれで探します。昔のように出版社から目録を取り寄せるという面倒なことはできなくなりました。また、暇つぶしの本は古本屋、ブックオフで十分です。
そして、その隣にある「美の美」です。これは実にレベルが高く、美術専門誌も簡単には勝てないほどです。ついこの前までは筆者の好きな関西の数寄者(骨董や美術品の収集家であり茶道や芸術の愛好家)を扱っていましたが、今回は「見立て」のお話で、これも浮世絵や江戸文化を考えるうえでは興味深いものでした。

そして、いよいよ経済に関するものに目を通しますが、今回の紙面で注目したものは三つありました。
最初は、「日立は復活したか」という中外時評です。日立という巨大企業の迷走はかれこれ十年以上続いていますが、ようやく不採算部門の整理や戦略部門の強化など、事業の再構築が前に進み、パナソニックやシャープの大赤字を尻目に黒字基調の経営が整ってきました。そこで、これからの日立の進むべき道筋について、日経らしいまとまった論評です。特に重要なメッセージは、「サービスカンパニー」です。単なるメーカーから、サービスサプライヤーへ、はたして日立の経営者はどう読み込んだでしょうか。
次に、「日曜に考える」という二人の専門家が意見を闘わせる欄での「製造業は国内に戻るか」という特集です。ホンダの伊東社長と、東レの増田調査部長がそれぞれの考えを的確に伝えています。伊東社長は「需要のあるところで生産する」「日本では基幹技術を担う」「ビッグデータの活用が鍵だ」と明確に述べています。円安=国内生産という安直な道は選ばない、基幹技術はビッグデータが重要だ、というメッセージです。増田調査部長は「大規模な国内回帰は起こらない」「海外の利益を国内に還流して得意分野に再投資するのが基本戦略」「日本の強みは時間がモノを言うビジネス」と、やはり研究畑らしい見解です。しかし、いずれも共通しているのは、生産は需要に近いところへ移動する、日本の強みは日本に残る、製造業は国の競争力やイノベーションの母体という点でしょう。その意味では、皆さんが会社を選ぶ際は、その会社の「強み」をきちんと見定める必要があるのかもしれません。
最後は、紙面を飾った為替、金利、株の三つの市場ははたして安定するのか、という記事です。このところの荒れた市場は、おそらくたくさんの被害を投資家にもたらしたでしょう。それも、その多くは国内の個人投資家でしょう。それがどうしたら安定するのか、という話です。筆者は短期的な市場の乱高下には無関心で、長期的に為替が円安傾向で安定し、金利はMax3%程度で安定し、株は15,000~20,000円で安定するのが日本の最大利益になる、という立場ですが、とはいえ足元の展開も気にならない訳ではありません。日経的には、アベノミクスの規制緩和がどれだけ進むか、アメリカがドルの垂れ流しに歯止めをかけるか、この二つの要因を重視しているようですが、これには同感です。その中でも、アメリカが金融緩和を止めて平常運転に戻ることは、短期的には株の下落につながりますが、長期的には国際経済の安定化に貢献すると考えています。これは、以前にお話した「過剰流動性」を恐れるからです。

こんなところが、日曜日の朝の日本経済新聞を斜め読みした感想で、ざっと1時間の作業となります。いかがでしょうか、こんな感じで日本経済新聞と付き合っていただければ、さほどたじろがずに済むのではないでしょうか。

C「減価償却」

以前、第36話で税金のお話を差し上げました。収入(売上)から費用を引いた所得(利益)に税金はかかる、というような内容でした。
今回は、皆さんが会社に入ったときに、必ず覚えておかないといけない「減価償却」という考え方についてお伝えしたいと思います。

具体的な例を上げますと、会社で営業用の車を1台、200万円で買った、としましょう。この200万円というお金は費用になるでしょうか。費用になれば売上から控除できますので、その分だけ利益が減って、税金も減ることになります。
正解は、費用になりません。これは、200万円という現金を定期預金に変えたのと同じことで、200万円という現金を200万円の価値のある車に変えたのです。経理的な難しい言い方をしますと、貸借対照表での資産という括りの中で、200万円の現金が有形固定資産である200万円の営業用車両に変わっただけだ、ということになります。従って、資産は減りも増えもしていないのです。

ところが、定期預金は古くなりませんが、車は古くなります。年数が過ぎるほど価値が減ることになります。この問題を解決するための経理手法が「減価償却」ということです。毎年価値が減る資産については、減る価値の分だけ費用にすることができるのです。
例えば、先ほどの200万円の車で言いますと、普通自動車の耐用年数は6年ですので、毎年200万円÷6=33.3万円だけ価値が減ります。この減った分を費用にしてよろしい、というのが「減価償却」の考え方です。1年過ぎると200万円の価値は166.7万円になり、また1年過ぎると133.4万円になり、さらに1年過ぎると100.1万円になり、という具合に車の資産価値は毎年下がり、それに伴って、毎年減価償却費として33.3万円の費用を損益計算書に計上する、ということになります。そうしますと、毎年売上から33.3万円を控除し、税金を軽減することができるのです。
実はこの「減価償却」という考え方を決めませんと、利益がたくさん出そうだから車でも何でも買って費用で落として利益を減らそう、という税金対策が横行することになるのです。

では、この「減価償却」と真逆なお話をいたしましょう。
それは、日本の製造業の設備年齢が13.4年と統計上で最長になった、という発表です。これは何を意味しているかと言いますと、日本の工場の設備がみんな古くなっている、ということです。機械や装置の耐用年数(減価償却の年数)は、種類によっても違いますが、だいたいは5~12年というところですから、平均で13.4年たった機械や装置を使っているということは、「減価償却」が終わって、耐用年数が過ぎた設備で日本の製造業は生産している傾向にある、ということです。
確かに「減価償却」は終わっていますから(価値がゼロになっている)、費用に計上する減価償却費もゼロですので、コスト的には負担の無い設備です。しかし、それだけ古くなった設備を使っていれば、故障が発生したり、生産効率が下がったり、最新の設備との競争にはどう考えても不利です。

このように、会社は利益が発生している、あるいは利益の発生が見込まれる局面では設備をどんどん新しくして、減価償却費を費用に計上して税金を節約し、利益が発生していない、あるいは利益の発生が見込まれない局面では古い設備のままにして、減価償却費を費用に計上せずに利益を確保しようとするのです。
実はアベノミクスがうまく廻るかどうかの重要なポイントは、民間企業が設備投資(設備をどんどん新しくする)を増やすかどうかにあります。これまでの4年間、設備投資の額は減り続け、年間60兆円台というところでしたが、これを70兆円まで引き上げるのが安倍政権の大きな目標となっています。そのためには、会社に利益が発生している、そして今後も利益の発生が見込まれる、という状況を作り上げなければならないのは言うまでもありません。
皆さんの近未来にも大きな影響を与える話ですので、ぜひ注目していただきたいと思います。

C「社会的プレゼンス」

皆さんが社会に出て働くようになると、ある種の焦りを感じる場合も多いと思います。
それは、「自分は正しいことを言っているのに無視される、あるいは軽視される、あるいはきちんと受け止めてもらえない」というような焦りです。
例えば、話す内容が同じことでも、それが周辺に及ぼす影響力は人によって違います。
こうした影響力は、以下の方程式でカウントすることができます。
(発言そのもののエネルギー)×(発言者の社会的プレゼンス)=(発言の影響力)

これは考えてみますと当然な訳で、皆さんの社会的プレゼンス(社会における存在感)はほとんどゼロに近いからです。○○大学を卒業して社会人になって数ヶ月目の新人の社会的プレゼンスなど、たかがしれたものです。
これは“没法子(メイファーズ、仕方の無いこと)”です。

ところが、中には焦りから「大振り」をする人が出てきます。
これはお薦めできないことです。
要するに、大手柄を立てて注目を集めたい、そうすれば自分の発言も無視されない、というリニア型(直線的な)のロジックがもたらすのです。
しかし、まずはうまくいきません。それどころか、「大振り」は「空振り」になって、もともと少ない社会的プレゼンスがさらに低下します(場合によってはマイナスになります)。
考えてもみてください。二軍から抜擢されて一軍に上がり、代打ではじめての打席に立ったバッターが、ホームランを狙って「大振り」したらどうなりますか。まずは三振するのが落ちでしょう。長いプロ野球の歴史の中で、初打席でホームランを打ったのは、わずか52人しかいないのです。

では、どうしたらよいのでしょうか。
「信頼は小さな成果の積み重ねから」という原則に立ち返ることです。
筆者は昔、スマートバレー公社のビル・ミラー副会長(スタンフォード大学教授)から、ある言葉をいただきました。ちょうど、彼が1996年に来日し、スマートバレーフォーラムで日本各地を廻っていたとき、会津大学での講演会でのことでした。
それは、「集める期待はできるだけ小さく、与える成果はできるだけ早く」という言葉です。
大きな期待を集めれば期待を裏切ったときの反動も大きく、大きな成果を目指せばどうしても遅くなってしまう、ということの反語だと思います。
おわかりいただけるでしょうか。

皆さんもこれから社会に出て働くようになったら、小さな成果を一つひとつ積み上げてください。それが社会的プレゼンスを高める唯一の道です。ただし、その成果はできるだけ早い方がよろしいです。
最初は小さな仕事しか任せられませんが、そこでの小さな成果は小さな信頼に結びつき、それが積み上がると少し大きな仕事を任せられ、そこで成果を出せれば少し大きな信頼に結びつく、そして、さらに大きな仕事を、こうしたプラスのスパイラルを自分で作り上げることです。

仕事での信頼も異性からの好感も、ごく小さな成果からしかはじまらないのです。下手に力みかえって「大振り」をするのではなく、フォアボールでも内野安打でもとにかく塁に出ることからはじめてみましょう。そして、一度プラスのスパイラルを作れれば、割と上昇気流を掴みやすいものです。ただし、「高転び」をしないようにだけは、ご注意ください。人間、順調なときにこそ落とし穴が待っているものです。

C「アベノミクスと成長戦略」

企業経営において、大変重要な位置を占めるのが、「近未来を読む」ということです。
企業経営で欠かせないのが「新たな雇用」と「新たな設備投資」ですが、そのいずれもが「近未来を読む」ことをしませんと、一歩踏み出せません。
雇用はなかなか首にできない正社員を増やすことですし、設備投資は過剰投資に陥れば資金回収は難しくなるからです。それだけ、慎重な経営判断の元に踏み出すことになります。
とりわけ、財務的な余裕の少ない中小企業や小規模事業者では、「近未来を読む」ことが会社の命運を決めることにもなりかねません。それを間違えば、経営危機が目の前です。

しかし、そうは言っても「近未来を読む」ことは難しいものです。今日のことさえわからないものが、どうして明日のことなどわかるでしょうか。
そこで、筆者がお薦めしたいのが、公的な「近未来」を参考にすることです。
もちろんあたるとは限りませんが、少なくともそれだけの手間隙をかけたのですから、参考にはなるはずです。

そこで、今朝注目したのが、政府が産業競争力会議で示した「成長戦略」の素案です。
これが、政府が今のところ想像している、あるいは誘導しようとしている日本の「近未来」と考えてよろしいでしょう。

ざっと内容をまとめますと。
第一は「産業再興」です。大きな柱としては、開業率を10%にまで上げる、そのために個人補償制度を見直す(会社の借金は経営者が保証するケースが多いのです)。また、設備投資を拡大する、あるいは黒字の中小企業を増やす、あるいは就業率を改善するため転職を支援する、あるいは産業再興に必要な規制緩和のために戦略特区を設置する、というようなものが並んでいます。
ここから想像される「近未来」は、開業(起業)に対する支援が強化されるであろう、設備投資は優遇されるであろう、中小企業への支援も強化されるであろう、労働市場の流動化が進むであろう、特区の活用が鍵になるであろう、ということです。

第二は「戦略市場創造」です。大まかに言えば、医療・健康、農業、観光を新しい市場として位置づける、ということでしょう。
そうしますと、産業領域として「近未来」にビジネスチャンスが増えるのは、この三つ、医療・健康、農業、観光だと言えるでしょう。さて、長野においてこの三つをつなぐ素材があるとすれば、筆者は”薬用人参“ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

第三は「国際展開戦略」です。既にこのコラムで何度も取り上げてきたように、海外に市場は拡がるということに他なりません。同時に、日本へ海外の資本や労働力を呼び込む、という意味での国際化も進めるということでしょう。
そうしますと、これも何度もお伝えしてきましたが、今後も人口の増え続けるアジア、アフリカ、イスラム社会といった「外の世界」に対する知見はますます必要性が増すことになります。このコラムでもこの三つの地域に関するお話をこれからもどんどん提供したいと考えています。

いかがでしょうか、皆さんが社会に出る際の選択で念頭に置くべきヒントがたくさん含まれているのではないでしょうか。
筆者が特に注目するのは、政府の中小企業対策と規制緩和、あるいは国際展開がどうからまってくるのか、です。
そこに、多くの中小企業や小規模事業者が飛躍するきっかけが生まれ、皆さんがそうしたところで活躍できる可能性が増えると考えるからです。

A「イスラム社会を知る③~イスラム社会の七つのグループ~」

都合三回にわたり、イスラム社会のお話を差し上げましたが、今回が一応最初のシリーズの最後になります。実際には今回ではじめてイスラム社会を鳥瞰していただくことになります。

イスラム社会、それは13億人と世界の人口の4分の1近くを占め、西は大西洋に面するモロッコ、モーリタニアから東はインドネシアの島々に至るまで、アラビア半島の砂漠の中から生まれ、世界に拡がった社会です。
この社会を律するのは「アブラハムの宗教」であるイスラム教です。
イスラム教と言えば、皆さんが想像するのは断食、全身を布で覆う女性、モスクでの礼拝、ジハード(聖なる戦い)、そんなところでしょうか。
現代日本にとって、イスラム社会はアフリカと並んで遠い存在と言ってもよいでしょう。

しかし、このイスラム社会が国際社会における重要な構成要素であり、9・11に見られるように国際不安を生み出しかねず、さらに多くの産油国を内包して国際経済のキーパーソンともなり、要するに無視できない存在であると、筆者は感じています。
そうであれば、やはり現代日本におけるイスラム社会への無理解、無関心は好ましい状況ではなく、国際社会のほかの構成要素と同じレベルでは認識し、理解する必要があると考えています。その意味で、今回はごくその入り口を覘いて見ることにしましょう。

まず、ざくっと鳥瞰して、イスラム社会は地政学的に大きく七つのグループに分けることができるということです。
第一のグループは“北アフリカ”、いわゆるマグレブの地で、古来よりベルベル人の住む半農半遊牧の世界で、古代ローマ帝国に支配された過去から、ヨーロッパと深い結びつきのあるグループです。
第二のグループは“エジプト”、古代エジプト文明の過去は言うまでもなく、常に中心的位置を占めてきた重要なグループです。
第三のグループは発祥の地である“アラブそのもの”、アラビア半島からイラク、シリア、レバノン、ヨルダンというイスラム社会のコアのようなグループです。
第四のグループは“ペルシア”、かつての中央アジアの支配者であり、大国イランを中心として、古代ペルシア民族の誇りを強く持つグループです。
第五のグループは北方遊牧民族、古くは蒙古高原の西に居住し、長い時間をかけて中央アジアから中東、そしてアナトリアへと移動し、今は“トルコを中心とするチュルク系(モンゴロイド)”のグループです。
第六のグループはアフガニスタンからインドへと拡がり、西にパキスタン、東にバングラディッシュという“インド亜大陸”のグループです。
第七のグループはイスラム社会で一番の人口を抱える“インドネシア”で、チュルク系と並んでのモンゴロイドの世界ですが、イスラム社会では一番アジア的な柔軟性に富んだグループとも言えます。

この七つのグループのうち、マグレブ(北アフリカ)とインド亜大陸とインドネシアはひとまず置いておきましょう。イスラム社会の歴史的中心である中東からは遠い世界だからです。
そうしますと、エジプト、イラン(ペルシア)、アラブ、トルコという四つのグループを地政学的に理解していれば、イスラム社会のほんの入り口には近づけたということになります。

この四つは、イスラム社会の覇権を狙って、時には戦い、時にはけん制し、互いに異なる立ち位置にあると言ってよいでしょう。
民族的には、“トルコ”はまさにモンゴロイド(黄色人種)で東方からの征服者、“エジプト”はハム語族(アラブ系だが系統を別にする)でナイルの古い歴史を誇る民、“イラン”はコーカソイド(白色人種)の一大勢力としてペルシア高原から古代世界を征服した過去を持つ民、“アラブ”は預言者ムハンマドを生んだイスラム発祥の民であり、その言語(アラビア語、アラビア文字)は神の言葉を伝えるものとして尊ばれるイスラム社会の共通言語です。
また、イスラム教の宗派としても、アラブはほとんどがスンニー派の多数派勢力であるのに対して、イランはスンニー派と対峙する少数派シーア派の大本山、それに対してトルコとエジプトは政教分離で世俗的な国家を目指しています。
このように、イスラム社会の根幹をなす四つのグループの間でさえ、さまざまな違いを抱えていますので、それをイスラムという一言で片付けるのはいささか無理があると言えます。
今回は、とりあえず鳥瞰的、地政学的な入り口をご紹介いたしましたが、この先はより深い層からイスラム社会を見てゆきたいと考えておりますので、ご辛抱の上、お付き合いをお願いいたします。
それは13億人を超える人口を抱え、世界平均よりも早い速度で人口が増加し、これからの日本にとって大きな市場となる地域だからです。そして、この市場へは大企業だけではなく、多くの中小企業や小規模事業者が展開することになると思うからです。

A「イスラム社会を知る②~アブラハムの宗教~」

皆さんが大学を出て飛び込む現代日本は、間違いなく国際化の只中にあるでしょう。既に、人口の話や豊田通商の話で皆さんも感じたとおり、アジアやアフリカ、あるいは欧米や中南米といった世界の拡がりの中に皆さんは放り込まれることになります。
その際に皆さんの力になるのは、世界のさまざまな国、地域、民族、宗教、文化、風俗、価値観というものの知見であり、経験であると思います。
経験するのはなかなか難しいでしょうから、せめてこのコラムで雑学的知識だけでも身につけていただければと願っています。

さて、その意味で今回は宗教の話をいたします。これは、イスラム社会という巨大な人間集団を理解するためのほんの入り口だとお考えいただければ幸いです。

世界の宗教は大きく分けて、四つのカテゴリーに分類されます。
第一のカテゴリーはこれからお話しする「アブラハムの宗教」です。
第二のカテゴリーはインドにおけるヒンズー教の世界です。
第三のカテゴリーは私たちが生きる東アジアにおける多神教の世界です。
第四のカテゴリーは以上の三つに入らない、よりプリミティブ(原初的)な土着の宗教です。このカテゴリーは第一でも第二でも第三でもない、というだけの共通項でまとめられた世界各地の小グループですから、特に論及はしません。
としますと、残る三つのカテゴリーの中で、他のカテゴリーの世界にまで影響を及ぼし、ある意味では世界中で増え続けているのが「アブラハムの宗教」なのです。

「アブラハムの宗教」、それは砂漠の中から生まれた一神教を指します。ユダヤ教にはじまり、キリスト教を生み、さらにイスラム教を生んだ母体こそが、「アブラハムの宗教」なのです。ユダヤ教1,500万人、キリスト教21億人、イスラム教13億人、あわせると世界の人口の半分強が属する宗教カテゴリーということになります。
この宗教カテゴリーが共有する価値観は実に強烈で、私たちの多神教の世界とは明らかに異なります。
第一は、神は唯一の神である、ということです。それ以外の神はいないのです。
第二は、神が預言者にメッセージを与える、ということです。ユダヤ教ではモーゼがシナイ山で十戒を授かり、キリスト教ではキリストが神の言葉を授かり、イスラム教ではムハンマドがコーランを授かり、それを聖典としたのです。神は偉大ですから、普通の人では存在に触れることができず、選ばれた預言者だけが神の存在に触れ、言葉を授かることができるのです。ですから、神の姿は誰も知らないので、神の偶像は禁止されることになります。
第三は、神が人間の生き方のルールを定める、ということです。神が与えたメッセージは人間が守らなければならないルールであり、それから外れることは神を裏切ることなのです。
第四は、世界は神が創造し、いずれ世界の滅亡があり、その際に神が裁きを下す、ということです。神の定めたルールを守った人は永遠の命が与えられ、神の定めたルールを破った人は地獄へ落ちる、ということになります。

時代的には、ユダヤ教が今から2,600年前のバビロン幽囚の頃、キリスト教がそれこそ西暦のはじまりですから2,000年前、イスラム教が一番新しくて1,400年前に確立しましたが、その根は同じなのです。
ですので、ユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも旧約聖書は神が与えたメッセージとして認められるのです。もっとも、ユダヤ教は新約聖書とコーランを神が与えたメッセージとしては認めず、キリスト教はコーランを神が与えたメッセージとしては認めませんが、これは当然でキリスト教は新約聖書でユダヤ教を革新し、イスラム教はコーランでユダヤ教とキリスト教を革新したのですから、革新のためには新しい神のメッセージが必要だった、ということに他なりません。
とあれ、表面的には認め合っていないように見えるユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、もとを正せば同じ「アブラハムの宗教」として、中東の砂漠の中から生まれたという事実を認識していただきたいと思います。ちなみに“アブラハム”とは旧約聖書にあるノアの洪水の後、はじめて神の言葉を聴いた預言者(旧約聖書の創世記)であり、その子孫がユダヤ教ではすべてのユダヤ人の祖先であり、イスラム教ではすべてのアラブ人の祖先とされています。要するに、あの砂漠の世界における共通の祖先なのです。

いかがでしょうか、こういうことをお知りになると、少しはイスラム社会が身近になりませんでしょうか。

C「税金」

皆さんが社会へ出ると、どうしても直面するのが「税金」です。以前、お話を差し上げた「雇用」「社会保障」と並んで、これはまったなしです。勤めるならば所得税、それに住民税、起業するならば法人税と、なかなかに面倒な話ですが、今回はそれをわかりやすく実際の事例から紐解いてみます。

「外れ馬券が控除の対象となるかどうか」、という事件がありました。
馬券の予想ソフトウェアと自分で考えた予想方式を組み合わせ、大量の馬券を買い続け、億単位で利益を上げていた競馬ファンが脱税で税務署に告訴された、という事件です。
税務署は外れ馬券は控除の対象にならないので、配当そのものに税金をかけ、競馬ファンは配当から外れ馬券を差し引いた利益を税金の対象とするように主張しましたが、裁判所は競馬ファンの主張を認めて、大幅に税金の額を軽減する判決を出したのです。当然ですが、税務署の告発を受けた地検は控訴しました。

さて、皆さんはこれまで税金とはあまり関係の無い生活を過ごしてきたでしょうが、これから社会に出れば否応無く税金と向き合うことになります。
では、税金とは何でしょうか?
それは、皆さんが政府から受ける公的なサービスの対価として納める一種の料金のようなものです。公的なサービスが特定のものに限定されている場合は、例えば高速道路の通行料のように実際に料金として支払いますが、公的なサービスが多種多様にわたっていて、特定できない場合は、それらを総括した料金として税金を納めると考えていただいてかまいません。市町村や都道府県からの公的なサービスに対しては住民税、国からの公的なサービスとしては所得税というように、受け取る公的サービスの提供者ごとに税金を納めることになります。

税金の基本原則は、直接税の場合は利益に対して税率をかけて税金の額が決まる、ということです。これは個人でも企業でも同じことです。また、間接税、例えば消費税の場合は、動いたお金(対価)の額に税率をかけて税金の額が決まる、ということです。
企業の場合は、“売上”から“費用”を差し引いた“利益”に対して、国の法人税、県の法人県民税、市の法人市民税がかかります。個人の場合も、“収入”から“費用”を差し引いた“所得”に対して、国の所得税、県の個人県民税、市の個人市民税がかかります。
この費用を差し引くことを「控除」、あるいは「損金扱い」と言いまして、どの費用を控除できるかが問題なのです。例えば、企業の場合、どうしても“交際費”というお付き合いの費用が生じますが、控除できるのは資本金1億円以下の企業では最大でも年間600万円とされ、さらにその使途についても細かな制限が設けられています。こうした控除対象から外れる費用は、実際には支払われていても、控除されませんので、その分だけ見かけ上の利益が増えて、税金が増えることになります。冒頭の競馬ファンの場合は、外れ馬券を買った費用を控除の対象として認めるかどうかが争点になっているのです。

皆さんは多くの場合、サラリーマンや公務員になるでしょうから、税金については「源泉徴収」という方法が取られますので、あまり税金と直接向き合うことはないでしょう。それは、源泉徴収によって、皆さんを雇った企業が皆さんに給与を支払うときに、あらかじめこの程度の所得税や住民税がかかるであろうと計算して天引きし、皆さんに代わって税金を納めているからです。サラリーマンの場合は、控除の対象が給与所得控除(サラリーマンとしての必要経費)、扶養控除(配偶者や子どもの養育にかかる経費)などと限定されていますので、計算がしやすいのです。そして、源泉徴収した税金の額と、実際に納税すべき額との差が「年末調整」という形で皆さんから追加徴収されたり、還付(税金が戻ること)されたりするのです。
ただし、住民税は所得税と違って後払いですので、前の年の所得にかかった税金を次の年に支払う、ということを覚えておいてください。会社を辞めた際に参考になるはずです。

また、皆さんが企業からの給与以外に、例えば夜のアルバイトで報酬やチップをもらったとか、馬券でたくさん儲けたとか、20万円以上の副収入のある人は、「確定申告」という手続きを取る必要があります。
ちなみに、皆さんがサラリーマンや公務員にならずに「起業する」あるいは「独立する」場合は、起業であれば法人になりますので法人税の申告、法人にしないで独立する個人事業主であれば所得税の確定申告がそれぞれに必要となります。特に、個人事業主の場合は帳簿をつける青色申告と帳簿をつけない白色申告の二通りがありますので、どちらを選ぶかは十分検討されることです。この青色申告をしますと、必要経費(控除できる費用)がどこまで認められるかを実体感できるでしょう。
ややこしい税金の仕組みですが、少しでも身近に感じていただければ、この先、皆さんのお役に立つでしょう。

C「地域における産業振興を考える」

今回は趣向を変えて、皆さんの長野県と筆者の会津との不思議な関わりを通して、地域における産業振興のヒントを考えてみたいと思います。それは、皆さんが地域の中小企業や小規模事業者で働く際のビジネスチャンスにもなると思うからです。

それは“薬用人参”、かつては朝鮮人参と呼ばれ、半島の政治的対立に配慮して薬用人参と名を変え、厚生労働省の薬事法に基づく指導で「薬用」の名義使用を止められて、今は高麗人参となった薬草です。
古くから東アジアで生薬(東洋医学で使う薬の材料)として珍重され、朝鮮半島と中国吉林省を隔てる長白山(白頭山)山系を原産地とします。
野生のもの(山参、サンサム)はとんでもない高値で売買され、上海の漢方薬店などでは一本数万から数十万元で値付けされていることもざらです。2009年のオークションでは土根(掘り取った状態)312グラム、乾燥後78グラム、推定100年ものの山参が326万元、約4,000万円で競り落とされたほどです、本当に驚きますね、中国人の漢方好きには。

さて、筆者はかつて長野県庁に勤める寸前まで行ったことがあります。ほんの少しのすれ違いで故郷会津へ戻る道を選んでしまいましたが、そうでなければ今頃は上田の蕎麦屋で毎晩酒に溺れていたかもしれません。
「どうして長野県?」ですが、その一つの背景が北御牧村にあった薬用人参試験地でした。今ではその機能も変わり、北御牧村も東御市となってしまったようですが、「薬用人参を研究するならばここ」と心に決めていたのです。実は筆者は農学部の出身なんです。

で、「どうして薬用人参?」ですが、それは日本において薬用人参を栽培しているのはわずか三つの地域でしかなく、そのうちの一つが筆者の故郷会津なのです。
江戸時代、清や李朝朝鮮との貿易で重要な輸入品の一つが薬用人参でした。野生の山参だけでは需要に追いつかず、李朝朝鮮で畑での栽培技術が確立され、朝鮮半島中部の山間地で大規模な栽培がはじまり、それは朝鮮半島全域や満州南部(中国吉林省など)へ拡がりました。この辺の事情は「商道(サンド)」という韓国ドラマで詳しく取り上げられていました。
この栽培ものの薬用人参が労咳(肺結核)をはじめとする病に効くと評判になり、17世紀後半には江戸で大きな消費ブームが起きたのです。しかし、すべてを輸入に頼らざるを得ず、その代金として国外へ金銀が大量に流出することになりました。
この貿易収支の赤字に頭を悩ませた八代将軍徳川吉宗が国内での栽培を奨励し、日光で大規模な栽培を手がけたのが、日本における本格的な薬用人参栽培の第一歩となります。貿易収支で赤字になると、国際的に通用する通貨(当時は金銀、今は米ドル)は海外に流出するとご記憶ください。

そして、18世紀に入って日光で採取された種を譲り受けた松江藩が中海に浮かぶ大根島で栽培をはじめ、その種を譲り受けた会津藩が栽培に取り組み、さらに19世紀に入り、佐久地方を中心として長野県でも栽培が本格化したのです。
現在は、生産量で長野県がトップを占め、会津、ついで大根島(松江市)となっているようです。

そこで薬用人参ですが、ぜひ増産するべきです。また、薬用人参を使ったジビエ料理(gibier、野生の食材を使った料理)に挑戦すべきです。
狙いは東アジアの中高年の富裕層です。健康に病的な関心を持ち、可能であるならば異性にも興味を失いたくない、という共通の心理状態にあるお金持ちです。
彼ら彼女らは、心の底から「効く」ことを信じて救われたいのです。そのためならば、お金と時間を惜しみません。
しかし、中国の栽培地である吉林省ではハイレベルの観光を楽しむには至りません。サービスの質、料理の質、施設の質、すべてが不足していますし、そう簡単にそれを整えることはできません、文化には時間がかかるのです。
そこで、温泉に恵まれ、スキーも楽しめ、新幹線で東京とも近い長野県の佐久~上田地方が薬用人参に焦点をあて、健康に効くジビエ料理を、ということです。
しかも、会津をはじめとする国内はもとより、中国でも韓国でも薬用人参の栽培は後継者不足が目立っており、長期的には品薄が見込まれること、漢方ブームは華僑を中心として世界へ拡がりつつあり、中国本土の旺盛な消費もさることながら、国際的な需要増加が見込まれることを考えますと、早めに戦略的なプロジェクトを立ち上げるのがよろしいのではないかと、筆者は考えております。もちろん、会津でも同じような働きかけをする予定ですが、ここは会津と上田が競い合うようになったほうが、結果して両存繁栄につながると信じています。よきライバルの存在が品質の向上を促すのですから。。。

いかがでしょうか、地域における産業振興を考えるうえでの重要な要素、「素材」「高付加価値化」「市場」という点からのヒントになっていたら幸いです。

A「イスラム社会を知る①~イスタンブール~」

これまでは主にアジアを中心として海外の情報をお伝えしてきました。それは、中小企業や小規模事業者であれ、これからは海外を意識しなければ未来は拓かれないと思うからです。
今回からは、少し角度を変えて、イスラム社会のことをお伝えしたいと考えています。アフリカと並んで、日本人には一番遠い世界かもしれません。
ちょうど、オリンピック招致というイベントがあり、アジア、ヨーロッパ、そしてイスラム社会のそれぞれがエントリーしています。東京、マドリード、そしてイスタンブールです。

筆者は生来のひねくれものです。
みんなが右ならば自分は左、という生き方を好んできました。
いささか難しい言い方をしますと、自分の帰属する集団の多様性を補完するには、そうした生き方が必要だと、なぜか子どもの頃から感じていたからです。
というと格好よすぎですが、要するに臍が曲がって生まれたのです。

そういうひねくれものからすると、“イスタンブール”なんですね。
そうです、2020オリンピックの話です。
現在、日本の東京、スペインのマドリード、トルコのイスタンブールがエントリーしている2016リオデジャネイロの次のオリンピックです。

まず、「東京で開催する必然性」をまったく感じられないのです。
オリンピックを開催する、特に夏季オリンピックを開催することは、その国が国際社会で重要な存在であることを認められる一種の通過儀礼のような意味合いがあります。
1896の最初のオリンピックがギリシアのアテネだったことをはじめとして、1904のセントルイスはまさにアメリカ合衆国が国際社会でプレゼンスを示す場になりましたし、1936のベルリンがナチスドイツの国威発揚の場になったことも周知の事実です。さらに、1956には南半球ではじめてのメルボルン、1964の東京、1968のメキシコシティ、1988のソウル、2008の北京と、それぞれの時代背景の中で、国際社会がヨーロッパ中心から北米、オセアニア、アジア、中米、そして今度は南米と、そのエリアを拡げてきた歴史でもあるのです。

そういう意味で言えば、東京には「経済大国の日本が1964の一回だけなの?」みたいな、あるいは「原発事故復興の一大イベント」「国際都市東京のピーアール」といったようなメッセージしか受け取れないのは筆者だけでしょうか。

そうして考えますと、スペインのマドリードにもそう強いメッセージは感じられません。そう昔とも言えない1992バルセロナがありますし、今どうしてスペインとも思えます。

そこへいけば、イスタンブールには肩入れしたくなるメッセージがあります。このメッセージは今の国際社会では特に重要なものです。
それは、「イスラム社会も国際社会の重要なメンバーである」というメッセージです。
トルコはイスラム社会の中の大国です。インドネシア、パキスタン、バングラディッシュとトルコよりも人口の多いイスラム国家はありますが、7,000万人を超える人口を抱え、GDPも世界第17位の位置にあり、地政学的にヨーロッパと西アジア(イスラム社会の重要な要素)をつなぐ位置にあるトルコは、まさに21世紀の初頭、イスラム社会ではじめてのオリンピックを開催する意味のある国だと、筆者は考えています。

皆さんに考えていただきたいことは、国際社会の不安定要因の一つにイスラム社会があり、それは決して無視できるものではなく、13億人を超える彼らはこれからも国際社会の重要なメンバーである、ということです。その彼らへ国際社会はどういったメッセージを出すのかが問われていると思うのです。
しかし、日本人の多くはイスラム社会をほとんど知りません。これはとても危険なことで、「知らない」は無関係を生み、「知らない」は排除を生み、「知らない」は嫌悪を生むのです。
機会をつかまえて、このコラムでも皆さんにイスラム社会のお話を差し上げたいと考えていますが、とりあえず今は“イスタンブール”なのです。

追伸:その後、トルコでは現政権への批判が大規模なデモになって表面化し、オリンピック招致ではマイナスになったようですが(東京に決定しました)、このデモの背景、トルコをはじめとするイスラム社会における政教分離の歴史については、後日、ご紹介する機会もあるでしょう。

F「考えるうえでのヒント」

皆さんが社会へ出て活躍するうえで欠かせないことが、皆さん自身の能力を磨くことです。特に皆さんが組織に保護される度合いの高い大企業ではなく、中小企業や小規模事業者を選択する場合はなおさらです。それは逆に言えば、皆さん自身の能力を磨くには、むしろ中小企業や小規模事業者を選択する方が有利に働くと言えないこともありません。この話は、いずれかの機会に組織固有知識と市場汎用知識のところで詳しく触れたいと思います。
今回は、一見皆さんと無関係に見えるある古生物学での交替劇をご紹介し、「考える」ということの本質を探ってみたいと思います。

大学における科研費(科学研究費補助金)が有効に活かされているな、と感じさせる出来事がありました。
それが、「交替劇プロジェクト」という放送大学の番組を拝見したことです。

とにかく知的好奇心を満たすだけの面白さがあり、かつ、これからの私たちの生き方にも多くの示唆を与えてくれる知見の深さがあるのです。
簡単に言えば、どうしてネアンデルタールは滅び、私たちのご先祖様であるホモ・サピエンスは大繁栄したのか、という謎に迫るプロジェクトです。
このコラムをお読みの皆さんは十分な知的好奇心をお持ちでしょうし、同時にこうしたプロジェクトの学問的意味を理解できるインテリジェンスもお持ちでしょうから、ご興味があったら是非交替劇プロジェクトの公式サイト(http://www.koutaigeki.org/)をご覧ください。

筆者的要約では、以下のようになります。
これまで私たちは人類の進化は猿人⇒原人⇒旧人⇒新人と直線的なリニア型で進んできたと教えられていましたが、近年の遺伝子解析などによって、旧人(ネアンデルタール)から新人(ホモ・サピエンス)が生まれたのではなく、両者ともに原人の進化型であり、一時期は同時に生存していたが、競争関係の中からネアンデルタールは絶滅の道を辿り、ホモ・サピエンスは繁栄の道を辿ったのだとわかるようになりました。
ここまではよしとしましょう、問題は「何故ネアンデルタールは滅び、ホモ・サピエンスと交替したのか」です。
この「何故」に挑戦しているのが、このプロジェクトなのです。

これまでは、ある種の病気が原因ではないかとか、言葉によるコミュニケーション能力が不足していたのではないかとか、狩猟対象の大型草食動物の絶滅、ホモ・サピエンスとの闘争、まあ、いろんな説が発表されましたが、どうも確証と言えるほどの仮説はありませんでした。
中にはネアンデルタールはホモ・サピエンスと混血して吸収されたとか、ネアンデルタールがコーカソイド(白色人種)の先祖である、なんて仮説までありました(遺伝子解析で否定されています)。

ところが、この交替劇プロジェクトでは「学習」という新しい視点からその謎に挑戦しようとしているのです。
「学習」を「社会学習」と「個体学習」に区分し、そのどちらが環境変動に有利に働くのかを検証し、ネアンデルタールとホモ・サピエンスではそのどちらが多くを占めていたのかを検証しようとしています。

環境変動が多い時期は(例えば氷河期)、「社会から学ぶことで同じ行動を取れるようになる」という「社会学習」より、「個体として工夫することで違う行動を取れるようになる」という「個体学習」がより有利に働くと考えられます。何故ならば、「同じ行動」は変化を生みませんから、これまでと同じ環境では「安定」しますが、環境変動に適応することが難しいのです。しかし、「違う行動」は常に変化を生みますから、これまでと同じ環境では「不安定」になりますが、環境変動にはいち早く適応することができます。
そして、それはネアンデルタールの作った石器とホモ・サピエンスの作った石器を比べれば、明らかにネアンデルタールの作った石器には「変化」が少なく、ホモ・サピエンスの作った石器には「変化」が多いことから、ネアンデルタールは「社会学習」の頻度が高く、ホモ・サピエンスは「個体学習」の頻度が高いことがわかる、というのです。

進化における突然変異の役割と似たような話ですが、筆者は非常に興味深く感じました。それは、「違う行動」を取ることが変化の多い時代には重要な意味を持つ場合もある、ということと同時に、「違う行動」は個人が所属する集団の未来には有用であったとしても、その個人本人の幸せにつながるかどうかは別である、という皮肉さを感じたからです。
私たちの生きる日本も今大きな変化の中にあるとしましょう。そうした際に、私たち一人ひとりは「同じ行動」を取るのか、それとも「違う行動」を取るのか、これも“究極の選択”なのかもしれません。
そう考えますと、皆さんのこれからの選択でも同じような場面が訪れるのかもしれません。筆者は、皆さんが考えているほど大企業が安心できる存在だ、とは考えないようにしています。それは、期待が大きいほど、それが裏切られたときのショックも大きいからです。これはシャープやパナソニックをはじめとする家電メーカーへ勤め、そして今、早期退職を迫られている多くの人たちに共通する意識ではないかと思います。
同時に、中小企業や小規模事業者で働くことは、多くの人たちとは「違う行動」を取るという意味では、それなりの覚悟が必要だ、とも考えています。それは、「個体として工夫する」という道へ導くものだからです。
しかし、どちらの道を選ぶにせよご自分の選択です。決して他人のせいにはできないという意味では、心して臨んでください。

C「豊田通商とアフリカ」

日本の企業は大企業であれ、中小企業や小規模事業者であれ、世界を意識しないでは未来がありません。その意味で、今回はアフリカへ挑戦する企業の事例をご紹介いたします。

豊田通商という商社をご存知でしょうか。
現在、日本の総合商社は七社くらいしかありません。
三菱商事、三井物産、住友商事、伊藤忠、丸紅、ここまではご存知でしょうが、これに続くのが豊田通商です。
戦前はトヨタ自動車の購入者向けの融資を手がけていましたが(割賦販売)、戦後はトヨタ自動車の海外販売を中心とする商社へと変貌し、経営不振に陥ったトーメン(総合商社)を合併して、今では売上高6兆円という総合商社第6位のポジションにある大企業です。
ちなみに総合商社を希望する人には、とにかく健康で外国生活に挑戦できることが絶対条件だと、そして平均年収は1,000万円を超えるので、待遇はよいが厳しい業界だと、記憶してください。

その豊田通商が次の自動車市場だと狙いをつけているのがアフリカです。
旧トーメンのネットワークも生かして、東アフリカ(ケニアなど)を中心として自動車の営業基盤を培い、年商5,000億円という売上を実現してきましたが、今年1月にはフランスの商社CFAO社を約1,000億円で買収し、フランス資本の強い西アフリカ(フランスの旧植民地が多い)でも販路を拡大しようとしています。
これは「自動車」を主体とした販路ですから、豊田通商ならば当たり前のこととも言えます。

ところが、話はそれどころではありませんでした。
このCFAO社を通じて、世界第2位の小売り大手、仏カルフール社とアフリカでショッピングセンター(SC)を展開するというビッグニュースが飛び込んできました。
これは「自動車」という話ではありません。
SCを展開するということは、「小売」です。
口銭商売の商社にとってロットの大きな卸売は得意範疇ですが、細かい小売は専門外(仕入れ関係で小売に関わるケースは多いのですが)、要するにホールセール(wholesale)は上手でも、リテール(retail)は苦手と相場が決まっています。ですから、商社とアフリカと言えば、鉱山とか油田とか、そういった利権のからむ資源開発、あるいは発電所やコンビナートのような大規模なインフラ整備というのが通常でした。
それが、カルフールと組むとはいえ、SCとは「驚き」の一言です。

具体的には、年内にもコートジボワールの最大都市アビジャンで着工、今後はカメルーンやコンゴなどアフリカ西・中部8ヶ国にSCをカルフールのフランチャイズ方式により、今後10年間で約70店オープン、年間10億ユーロ(約1,300億円)の売上を目指すそうです。

1,300億円の売上自体はたいした数字ではありません。また、SCも自前ではなくカルフールのフランチャイズですので、そう面倒なことも少ないでしょう。
しかし、筆者の驚きは、「自動車」中心の豊田通商が、「西アフリカ」で、「ショッピングセンター」に手を出す、というところにあります。
一言で言えば、「ここまで来たか」という感想です。
しかし、同時にそれは日本の未来のあり方を鮮明に示しているとも言えるでしょう。
日本人にとってもっとも「遠い」場所の一つである「西アフリカ」(皆さんは西アフリカの国名をいくつ言えるでしょうか)、堅実と自動車を旨とする豊田通商が「小売(リテール)」、これを「挑戦」と言わずして何が挑戦でしょうか。
私たちに求められているのは、失いかけた“挑戦する心”なのかもしれません。そして、中小企業や小規模事業者に求められるものも“挑戦する心”なのかもしれません。